昨年度、徳島・高知で収録した証言映像を1階の情報検索コーナーで公開しています。ぜひご覧ください。

徳島県

「全てはシベリアから始まった」16分10秒


 *不自由な親指を駆使して建てた家が100軒以上

あらすじ
 昭和13年、第一次満蒙開拓青少年義勇軍に入隊。昭和19年満州で徴兵。擲弾兵として訓練を受けた。昭和20年8月17日、依蘭いらんでソ連兵と衝突。爆弾破片で左手親指の先を潰された。捕虜となりシベリアへ抑留され建築業務に従事。収容所にて製材中、左手親指を切断。昭和24年舞鶴へ。シベリア帰りというだけで帰郷後2年ほど警察に尾行される。大工仕事に就くも生活が厳しかった。昭和34年2級建築士の免許を取得。

「見えない目 理解されない苦しみの中で」13分27秒

 *外見では分かりにくい目の障害のため「怠け者」などと言われた

あらすじ
 昭和17年、徴兵で中国に出征、歩兵第43連隊第2機関銃中隊に編入。翌年左眼硝子体溷濁ごんだく症と診断され失明する。虎林陸軍病院に入院後、内地還送。昭和19年現役免除となり結婚。昭和20年5月臨時召集され、塹壕掘りに従事。戦後、徴兵前に修業した鼻緒職人となるが、色彩が分かりにくく苦労する。当時は食べるために必死だった。昭和36年に恩給請求。5項症に認定され、生活できる様になった。

「自分の傷より他人の世話~娘が繋ぐ人生~」12分15秒

 *自分の障害を表に出さず人の世話に尽くした生涯

あらすじ
 昭和17年陸軍入営。中国湖北省咸寧の戦闘で右腕貫通・盲管銃創となり内地還送。大阪陸軍病院で治療を受けたが右腕機能障害となる。昭和21年結婚。大規模農家を支え、後に徳島県傷痍軍人会会長を務めるまでとなった。父を県傷に送迎していた娘は、県傷の業務に触れるうちその思いを継ぎ親子で活動。父の死後、事務局長として会の解散まで携わった。

「身に沁みた平和」14分16秒

 *生きて帰れたことで知った平和の有難み

あらすじ
 昭和20年、海軍対潜学校を卒業し、佐世保で敷設艇「燕」乗組員となる。同年宮古島沖にて米軍戦闘機の爆撃を受け、左足の腱を切断。台湾・基隆の海軍病院で足の腱を繋ぐ手術をうけるが、機能は戻らず杖での歩行を余儀なくされる。台湾に上陸時、「こんな平和なところが世の中にあるのか」と感じる。戦後は足が不自由なため農協に勤めた。

「国に渡した体半分」16分40秒

 *体のあちこちの骨が腐り、「生きて1年」と宣告されて生きた人生

あらすじ
 昭和19年、海軍に志願。海軍対潜学校で音感訓練を受け、第186海防艦に水測兵として乗り組み、グラマン20機の攻撃を受け船が沈む際に傾いた船体で3メートル下に落下。昭和20年、横須賀での勤務中に40度の発熱。左脚股関節が腐ってなくなり歩行が困難となる。恩給の認可がなかなか下りず、厳しい生活が続いた。出撃前、健康な体で見た最後の風景が忘れられない。「国に体の半分を渡した」という思いがある。

高知県

「癒されない心 「死んだ方がまし」と思った青春」14分08秒


 *負傷により戦死したほうがましだという思いをいだいて

あらすじ
 昭和16年駆逐艦「皐月さつき」に乗船。昭和19年、マニラ湾でグラマンの機銃を受け顔面負傷。左胸からソーセージ状に肉片を作成して首、顎へ順次移植する手術が全て部分麻酔のため長期間痛みを伴った。終戦後に一年かけて再手術を受け、欠損した鼻に左脚の脛から骨を、額から肉を移植するも整形に失敗。人に見られないようにマスクをするも、年頃の人に笑われたりもしたが、周囲の人々の助けで今は充実している。

「誰にも言わなかった左眼失明」15分09秒

 *失明で味わった労苦

あらすじ
昭和18年に中学卒業後、陸軍運輸部暁6140部隊修理部として小発(上陸用舟艇)の整備をした。エンジン据付作業中、鉄片が左眼に刺さり失明。昭和20年8月6日、原爆を体験。戦後はでんぷん工場などに勤務。片目では距離感が掴めないことから運転免許が取れず、仕事の選択肢は多くなかった。失明のことは誰にも言わず、誠実に働いた。

Related Contents

2017年