平成18年、故 酒井要さん(東京都在住)の友人が当館を訪れ、『歩行帳』(提出用と保存用)とスクラップブック(新聞切り抜き)を寄贈されました。
 酒井さんは昭和19年、中国で戦車の下敷きになり右脚大腿部を切断されました。戦後30年近く支給された義足を使用していましたが、使い勝手の悪さと旅行先で足の不自由な子どもが体に合わない義足を使っているのを見て奮起。昭和50年11月、全国の足の不自由な人のために開発した義足を発明しました。「人足機」と名付けた義足は三年がかりで改良し、足首が前後左右に動き、膝も柔らかく自然に足が前に出るように工夫されました。
 人足機を装着した酒井さんは、独り身ということもあって東京で歩行訓練をおこなった後、その機能性が優れていることを自ら証明することを思いつきました。昭和51年1月6日、55歳の時、東京から鹿児島へ向かい、鹿児島市役所前を出発し、福岡、広島、大阪、静岡を経て箱根峠を越え、東京まで約2000キロ、万歩計で3541372歩を「歩破」しました。
 これを証明する『歩行帳』には、毎日、出発月日・時間と到着月日・時間を記入し、歩行証明のサインを集めました。署名者は、市長、福祉事務所長、警察署長、駅長をはじめ県福祉課、郵便局、消防署、派出所の関係者や銀行、信用金庫、新聞社、病院そして旅館、給油所の人々約1000名の名前が記されています。スクラップブックには、酒井さんが発明した義足「人足機」で約2000キロを「歩破」したことが、多くの新聞に掲載されたことが伺えます。
 残念ながら、その後の記載はなく、人足機についての特許の記録がないこと、厚生省へ提出するはずの歩行帳が残されていることなどから、「特許を取得して厚生省へ提出」という目的は果たせなかったようです。しかし、結果はどうあれ、自分で考案した義足で2000キロを「歩破」したことは紛れもない事実です。『歩行帳』の文末には、次のように締めくくっています。


「虎は死して皮を残し 私は死して人足機を残す」


酒井さんのこと、および人足機のことでご存じの方、ぜひ当館へご連絡ください。

しょうけい館事務局:03-3234-7821

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2012年