S17-1四十四年間~脊髄損傷の夫とともに生きぬいて~(24分)

証言者は、昭和17年に傷痍軍人箱根療養所の看護婦となり、患者であった男性と知り合い、退所して昭和19年に結婚。夫は昭和13年5月17日、中国の戦闘で脊髄損傷により下半身麻痺という障害があり、身体中に砲弾の破片が残っていた。新婚生活は戦後直後で、一家の生活を支えるために田圃の作業と、夫の介護生活の日々だった。歩くことができない夫との44年間の夫婦の歩みを振り返る。

S17-2窮すれば通ず、左手でソロバンも(19分27秒)

証言者は、昭和15年9月27日、中国河南省の戦闘で右手を負傷。軍医より「右手を切断しろ」といわれて、頑として断った。ソロバンの職業訓練では、左手で独特な弾き方を編み出した。戦後は、身体障害者や傷痍軍人会の諸活動に没頭。昭和54年に「傷痍軍人の碑」を建立。その碑文の末文は「・・・我らが最後の傷痍軍人であり又その妻であることを願望してその名を残す」と締めくくっている。

S17-3一発の機銃弾を体内に残したまま・・・(14分)

証言者は、独立歩兵第五十七大隊機関銃中隊に所属し、昭和19年10月1日、中国湖南省三門の戦闘で、跳弾が太ももと股間にあたった。株州野戦病院に運ばれ治療を受けた。戦友のおかげで辛うじて生き残ることができた。戦後、右太ももに機銃弾を残したまま、果樹園農家を引き継いだが、定期的に腰痛が襲った。平成2年、45年あまり体内に入っていた「摘出弾」を取り除いた。

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