1964年東京パラリンピックは第1部の国際ストーク・マンデビル競技大会(国際大会)と第2部の国際身体障害者スポーツ大会(国内大会)に分かれて開催されました。

通常、パラリンピックと呼ばれているのが第1部の国際大会であり、脊髄損傷者及び下半身麻痺者で車椅子を使用する選手が22ヶ国から参加しました。

第2部の国内大会は車椅子を除いた身体障がい者(肢体不自由・視覚障がい・聴覚障がい)の選手が参加しました。

日本人選手は、パラリンピック開催までの練習期間が非常に短かったのですが、その記録はどうだったのでしょうか。

第1部 国際ストーク・マンデビル競技大会における日本人選手のメダル獲得競技
金メダル 銀メダル 銅メダル
卓球
(男子ダブルス)
アーチェリー
(アルビヨン)
アーチェリー
(FITA)
フェンシング
(サーブル)
水泳
(50m背泳)
卓球
(シングルス)
水泳
(50m自由型)
ダーチャリー
(ペア)
卓球
(シングルス)
卓球
(ダブルス)
日本パラリンピック委員会HP 東京1964パラリンピック「日本選手メダリスト一覧」を参考に作成

この表は、第1部国際大会における日本人選手のメダル獲得の競技一覧です。金メダルは1つ、銀メダルは5つ、銅メダルは4つの競技で獲得しました。

これは、水泳50m背泳の銀メダル(写真左)とフェンシングサーブルの銀メダル(写真右)です。

企画展期間中は1階展示室に展示しています。


この2つの銀メダルを獲得した選手は、箱根療養所から出場した一人の男性でした。

戦場で傷つき、下半身不随となった傷病兵にして、東京パラリンピック銀メダリスト。
その人の名は、青野繁夫あおのしげおさんです。

青野さんは静岡県出身。師範学校を卒業後、小学校の教師となった後に従軍します。昭和18(1943)年に出征先の中国で腰部に銃撃を受け、両脚に障がいを負いました。

戦後、教職に戻ることはなく、昭和26(1951)年に長期療養を目的として脊髄損傷者を受け入れている箱根療養所に入所します。

パラリンピックに出場した青野さんですが、当時の年齢は40歳を過ぎていました。

今の時代においても40代でメダルを取るというのは非常に難しいことですから、青野さんが様々な困難を乗り越えてきたことは想像に難くありません。

箱根療養所でパラリンピックに向けた練習を行っている動画の中にも青野さんの姿が映っています。

右から2番目の車椅子に座っている方が青野さんです。他の人がフェンシングの練習をしているのを真剣に見ています。

青野さんはパラリンピックでフェンシングと水泳の競技に出場しました。当時、フェンシングをしている人は稀で、青野さんは剣道が得意であったためフェンシングへの出場を目指すこととなりました

他にもパラリンピックのカラー記録映画に青野さんが映っています。

これはフェンシングの試合の様子です。奥の選手が青野さんです。

更に、青野さんは選手団の代表を務め、開会式では選手宣誓を行いました。

青野さんの選手宣誓のシーンです。

出典:『パラリンピック 国際身体障害者スポーツ大会 写真集』

車椅子に座り、右手を挙げているのが青野さんです。その隣に立っている人は日本人選手団団長で医師の中村裕博士です。

青野さんは選手宣誓で、「私達は重度の障害を克服し精神及び身体を錬磨して愛と栄光の旗のもと限りない前進を期して正々堂々と闘う事を誓います」と述べました。

その時の心情は、かつて戦場で経験した焦燥感や緊張とは違った緊張感があったと語っています。

そこには、パラリンピックを機会に脊髄損傷者が置かれた立場や状況を多くの人々に理解してもらいたいという思いがありました。

企画展では、銀メダルに加え青野さんからご寄贈いただいた宣誓文の刻まれた竹細工を展示します。

また、青野さんはパラリンピックに参加したことにより、「今までの単調で平凡な闘病生活から一変し、自分の可能性を試すという希望を持つことができただけでなく、今後自らをより一層強く侍して将来に期待し、人間として与えられた使命を果す如く、鋭意努力したい」と綴っています。
(参考:障害保健福祉研究情報システムHP
「国際身体障害者スポーツ競技会 東京パラリンピック大会 報告書」

青野さん以外にも7人の傷病兵が1部、2部に選手として出場し、記録を残すほどの活躍をしました。

第1部では、青野さんのほかに松本毅まつもとつよしさんがダーチャリーで3位、アーチェリー(FITAとアルビヨン)で2位という記録を残しています。

続く第2部では、両下腿切断の豊田俊雄とよだとしおさんが100m障害競歩と砲丸投の競技において1位を獲得。両前腕切断の松田憲まつだあきらさんが立幅跳で4位入賞など各人がスポーツに取り組んできました。

彼らは、戦後も傷や病気による様々な苦労が続いていましたが、パラリンピックに参加したという名誉は、人生においてかけがえのない出来事となりました。


1964年東京パラリンピックは障がい者スポーツの転換期となっただけでなく、出場した選手に大きな影響を与えたことがうかがえます。