S10-1信じあえばこそ、今(14分50秒)

インパール作戦中の、昭和19年4月21日、インドとビルマ国境のアラカン山脈ビシェンプールにて、証言者は右足を受傷。野戦病院に入院、仮の治療を受けた。療養のため故郷に帰り、ここで終戦を迎えた。昭和21年4月、結婚。夫の代わりに、妻は村の出役作業に参加。現在では、米寿を迎え、孫、ひ孫たちに祝福される証言者。妻とともに戦後の労苦を乗り越えた安堵の表情に満たされている。

S10-2働くために義手を(14分54秒)

証言者は、昭和16年10月、土浦海軍航空隊の第9期「甲種飛行予科練習生」となる。昭和18年12月14日、偵察飛行のため海上を飛び出つ九七式飛行艇で、右腕右足を受傷。戦後、電気工事士の資格を取るために、物をつかめる「能動義手」を製作。妻は傷が痛む夫を献身的に支えた。働くための義手を外し、今、想いは亡き戦友たちへの慰霊に込められている。

S10-3戦病者として生きる(15分3秒)

証言者は14歳のとき、海軍少年兵を志願。昭和18年9月、横須賀海軍通信学校に入校。巡洋艦高雄に乗艦、レイテ沖海戦へ。シンガポールの海軍第10方面艦隊第10通信隊に転属、胸の病気を患う。戦後、胸の病気が再発し、国立岐阜療養所に入院。診断は「肺結核」、肋骨切除の手術を受けた。これまでの人生に、未だこだわりを持っているという証言者。そんな父親を長女は、いつもあたたかく見守っている。

S10-4奇跡の生還、そして苦難の日々(14分01秒)

証言者は、歩兵第八十六聯隊第二機関銃中隊の分隊長として、中国浙江省の戦線に配属。左眼に致命的な傷を負いながら、奇跡的に一命をとりとめた。昭和18年12月に現役免除となり、故郷へ帰り、地元の特産物である干し柿の栽培など、農業に励んだ。しかし、傷の後遺症は重く、過酷で苦難の日々であった。昭和20年4月、結婚。妻は病弱であった。証言者は、今でも戦争の夢を見るという。

S10-5七転八起(14分00秒)

昭和8年12月、歩兵第五十聯隊に入営。軽機関銃の分隊長を務めていた証言者は、昭和13年6月、中国河北省馬集村付近の戦闘で右手首を受傷。昭和16年、松本陸軍病院で療養中に知り合った、日本赤十字社救護看護婦と結婚。妻は夫の右手を案じ、常々、様々なリハビリをうながした。戦傷病者の夫を長年支え続けてくれた妻への感謝の気持ちを証言者は、決して忘れることがない。

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