当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。
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20−01 |
失明の夫を支えて(18分30秒) |
昭和16年に結婚。その6日後に召集されフィリピンへ。翌年、戦闘中に砲弾の破片で両眼を負傷。内地還送され大阪陸軍病院、東京第一陸軍病院と移り義眼を装着して帰郷。失明のため思うようにいかず自暴自棄となる。妻は終戦時には二人の子育てと農業の重労働で倒れ、意識不明に陥る。25年、農業を続けられなくなり夫婦で実家を離れる。傷病恩給が支給されても夫は寝言にうなされ続け、気を紛らわすために勝負事に走った。一時は夫婦とも互いに死を意識。晩年、夫は勝負事を止め家族団らんで過ごすようになったが、58年に他界。その直前に言い残した。「戦争だけはいやだ」と。 |
20−02 |
癒えない傷に耐えて(20分24秒) |
昭和16年9月、中国湖南省での戦闘で受傷。銃弾は右大腿を貫通し左大腿部まで入った。大腿部のため止血できない状態のまま3日間放置。ガス壊疽(えそ)となり陸軍病院で左脚の切断手術を受ける。17年に内地還送。東京第一陸軍病院で義足の装着訓練後、帰郷。実家の農業を継ぐ。わずかな畑とミカン畑で生計をたてるも、作業が思うように進まず、家族に苦労をかけた。終戦後、脚の痛みの後遺症に苦しめられる。痛みを紛らわすために酒に走り、家族も近寄れない状態が続いた。80歳を過ぎた頃、神経痛の治療薬で痛みから解放された。後遺症に苦しめられた半生であった。 |
20−03 |
見た目には分からないつらさ(17分55秒) |
15歳で海軍航空隊に志願。昭和13年、爆撃手として97式艦上攻撃機に乗り込み、日中戦争に参加。昭和16年、真珠湾攻撃に参加。翌年、セイロン島(スリランカ)東岸沖にてイギリス戦闘機の炸裂弾が目に入り受傷。その後、横須賀海軍病院にて本格的な治療を受け、義眼を装着。退院後、教官として後進の指導にあたる。徳島の航空隊で終戦を迎え、故郷に帰るものの、茫然自失の毎日を送る。仕事に就けない状況であっても、戦友や戦場に送りだした学生を忘れたことはなかった。やがて気持ちを切り替え、農業の振興と地域貢献に尽力する。 |
20−04 |
心と体の痛みと共に〜飛行班の思い〜(18分48秒) |
18歳で当時のあこがれの海軍航空隊に志願。しかし、飛行兵の適正検査には向いていなかったため、零戦部隊の整備兵として昭和18年、中国海南島の飛行班に配属される。飛行班の一員として飛行兵とともに寝起きし、飛行機の整備を行ったという仲間意識があるため、飛行機が帰ってこない時が最もつらかった。自分も飛行場でB29の空襲を受け背中を受傷。病院船氷川丸にて内地還送され終戦を迎える。戦後、右肩の痛みと背中の疼痛を隠して結婚。農業のかたわら畜産にも力を注ぎ、香川県畜産市場の開設に奔走。人のために尽くすことが、せめてもの亡き戦友に対する恩返しとして尽力。 |