当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。
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23−01 |
がむしゃらに生きて、描く(17分38秒) |
昭和16年に高射砲第一連隊に入隊後、陸軍船舶砲兵に転属。輸送船に取り付けられた高射砲の砲手として、数々の輸送任務につく。最初にジャワ島、次にアッツ島、キスカ島、アリューシャン列島などの北方へ。ビルマのラングーン、ニューギニア西部などにも航海。昭和19年11月、輸送船金華丸でフィリピンのレイテ島に兵員を輸送する任務についている時に、マニラ湾で敵機の空襲にあい右腕右足を負傷。その後、右腕は動かなくなり、左手で字を書く訓練をして家業の塗装業を継ぐ。子どもの頃から好きで描いていた船の絵が、模型の箱絵に使われたことがきっかけで、多くの軍艦などのプラモデルの箱絵を手がけた。後に画業に専念し、海洋船舶画家として多くの作品を手がけた。 |
23−02 |
片腕で取った自動車免許(19分31秒) |
昭和18年4月に独立工兵第4連隊に入隊後、同年9月にビルマへ。昭和19年5月、インパール作戦で従軍中にインドアッサム州で左腕を受傷。痛みに耐えながら歩いて部隊に戻り、トラックに乗せられ着いた野戦病院で左腕の切断手術を受ける。その後、日本に後送され昭和19年に帰国。病院で義肢の装着訓練をしてから帰郷。昭和31年に片腕で自動車免許を取得し運送業を営んだ。 |
23−03 |
サイパンで生き残って(16分33秒) |
昭和19年6月、サイパン島ドンニイ附近での戦闘により至近距離で米軍に撃たれ右腕、右脇腹、両足大腿部に重傷を負い意識を失う。意識が戻った時には米軍キャンプで手当てを受けていた。治療を受けながらも捕虜となり米本土へ移送され、終戦をハワイで迎える。昭和21年に帰国。身体には銃弾がまだ残っている。 |
23−04 |
努力家の夫を信じて〜失明の夫とともに〜(18分02秒) |
昭和14年1月に現役兵として騎兵第3連隊に入隊。昭和16年12月25日の香港島の攻略作戦で爆弾で吹き飛ばされた壁の破片により顔面と左肩を負傷。両眼損傷のため日本に後送され手術を受け左眼は回復。しかしその後その左眼も悪くなり手術を繰り返したが回復せず両眼失明となる。その後、鍼灸マッサージの資格と取得し、地元で治療院を開業した。 |
23−05 |
両眼失明と臭覚・味覚障害その上てんかんも・・・(19分40秒) |
昭和20年7月、呉に停泊中の戦艦日向の艦上で米軍による空爆を受け頭部を受傷。瀕死の重傷を負い意識が半年以上戻らなかったが、呉から東京へ転院し何度も手術を受けた。頭部に残った弾片の摘出手術により視神経を切断した結果、両眼失明となる。臭覚、味覚障害もあった。昭和23年に国立光明寮に入所し鍼灸マッサージの資格を取得。帰郷後、昭和34年に外傷性てんかんを発症。 |