当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。
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26−01 |
救護看護婦そして妻として生きた全力の人生(20分58秒) |
昭和19年4月、日赤看護婦の募集を知り広島赤十字病院で3ヶ月の訓練を受ける。昭和20年7月に福岡第二陸軍病院の杖立温泉に設置された分院の勤務となり、この分院で終戦を迎えた。その後、宮崎県の新田原陸軍病院、都城病院、嬉野病院、大村病院と数ヶ月毎に転勤が続き、傷病兵や引き揚げ患者などの搬送や看護に従事した。昭和23年には勤務先の嬉野病院で知り合った右足切断の傷痍軍人と結婚し、看護婦を退職。その後は夫とともに数々の小売店などを試行錯誤しながら営み、一家を支えた。 |
26−02 |
戦友をみとり、鎮魂に生きる(21分38秒) |
昭和16年4月、現役兵として陸軍第3航空教育隊に入隊、適性検査の結果、偵察員としての訓練を受け、朝鮮軍直協飛行隊の配属となる。昭和19年6月に独立飛行第45中隊の配属となりフィリピンに移動。レイテ沖海戦に備えての航法訓練中に敵機と遭遇し攻撃を受けセブ島沖に不時着。至近距離に落とされた爆弾により全身を負傷。両耳聴覚障害となるが、終戦までは部隊に戻り、十分な食糧や医薬品もない中で仲間とともに島内で逃避行を続けた。終戦後、捕虜となり、昭和21年3月復員。補聴器を付け役場勤務のかたわら、地元の戦没者名簿の作成と慰霊碑の建立に尽力した。 |
26−03 |
負傷した者同士で支え合った半世紀(26分2秒) |
昭和14年に現役兵として陸軍の歩兵第64連隊に入隊、満洲のハイラルの配属となる。幹部候補生としての訓練を受けた後に歩兵第36連隊に転属となり、昭和19年7月に沖縄本島の東方にある南大東島に移動。陣地構築の掘削作業の監督中、ダイナマイトが爆発し負傷。両眼失明と下顎損傷の大けがであったため、東京の陸軍病院に搬送され、顔の整形手術を何度となく受けた。その長い入院生活の中で、同じ病棟に入院していた患者であった妻と出会い、結婚。妻は昭和20年5月の東京空襲で全身に大火傷をおい、顔面と手の整形手術を受けている最中であった。退院後、夫の故郷で結婚。鍼灸マッサージの資格を取得した夫は開業し、妻と共に家族を支えた。 |