当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。
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35−01 |
頭部損傷の夫を支えて(20分25秒) |
南方の戦闘で顔面投下爆弾破片創となる。千葉陸軍病院で義眼・義歯を挿入。頬部貫通のため上下の歯と舌を損傷。歯は奥歯のみ。昭和21年退院。視力回復せず就職しても仕事は手伝い程度。昭和22年、姉の紹介で結婚。昭和27年春、左官業に戻るが、視力不足のため壁の下塗程度。てんかんの発作を起こして何度も自殺を図った。田畑の作業は全て妻がこなした。77歳で他界。最後までてんかんと頭痛に苦しめられた。 |
35−02 |
不自由さを胸に秘めて(18分29秒) |
昭和14年、国鉄に勤務。陸軍へ入営。昭和20年、中国湖南省の戦闘にて受傷。眉間から右耳下にかけて貫通銃創。右眼は明暗のみ、右耳は聞こえない状態のため、銃を撃つことはできなかった。その翌月に終戦。上海で武装解除。昭和21年3月、博多から実家へ帰った。国鉄に復職。昭和25年親戚の紹介で結婚。右眼・右耳のことと傷痍軍人であることを隠して結婚。右眼は7〜8年前に失明。 |
35−03 |
開墾・切り開いた人生 〜小学校教員から軍人の妻へ〜(19分23秒) |
昭和18年ニューギニアにて米軍の艦砲射撃で右腕を負傷。内地還送の後、宮崎県都城で現場復帰。落下傘部隊の訓練を受けて沖縄に向かう準備をしていた時に終戦。「終生夫に従うこと」と有無を言わせない厳格な夫。右腕負傷の後遺症として右腕の完全な屈伸不能と痺れがあった。93歳で右足首に悪性腫瘍ができて切断。義足を装着。装具士に90歳以上では初めてだと言われた。戦争については一切言いたがらなかった。 |
35−04 |
戦病の夫に代わって〜戦中・戦後の開拓人生〜(20分55秒) |
昭和12年、関東軍として北支事変に参加。従軍中、胸部疾患(肺結核)となり内地還送。除隊後、内原の満蒙開拓団で訓練を受ける。昭和17年に結婚。満州で開拓団として従事。昭和20年奉天で再召集、終戦。昭和21年に夫婦で引揚。現在地を鍬一つで開拓。肺結核の後遺症として睾丸切除。昭和30年頃、結核菌が転移し再除去。右の腎臓にも転移し切除。昭和40年代に恩給請求。恩給のおかげで生活も楽になった。 |
35−05 |
夫の両脚となって共に歩んだ人生(23分44秒) |
昭和18年満蒙開拓青少年義勇軍に入所。満洲の戦闘訓練で凍傷。右脚関節切断、左脚下腿切断となる。茨城県で入院中に終戦。恩給申請で父に背負われて区役所へ行くも罵倒され申請を断念。家業のクリーニング店を経営。両足義足を隠して運転免許取得。昭和43年「夫の足になりたい」と結婚。夫は製造会社に就職。業務用エレベーターが頭上に落下。脊髄の圧迫骨折で重傷を負い退職。入院した病院で恩給請求により認定される。 |