当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。
![]() |
36−01 |
左脚の負傷に耐えて 〜女手一つで育て上げた9人の子ども〜(18分53秒) |
昭和20年4月、近所の八重岳にいる陸軍兵士の昼食を作りに行っていたところ、米軍の上陸が始まり、逃避行を始めた。数日後銃撃を受け、左脚に受傷する。山中の小屋に運ばれたが、破傷風を発症。幸運にも父に遭遇。米軍の野戦病院では足を切断されるのを拒否。回復後、痛みをこらえて避難所で畑仕事などをした。結婚して9人の子供に恵まれるも夫は早世。苦労して子供たちを育てあげた。 |
36−02 |
追い詰められた地上戦 〜戦傷の夫とともに〜(21分56秒) |
沖縄戦のさなか、シゲさんは家族と壕に避難したが、日本兵に追い出される。摩文仁のガマに逃れ、水汲みに行くと近くに弾が落ち、受傷。周囲は死体ばかりだった。米軍に投降し、収容所で治療を受け、食堂でウェイトレスとして働く。村に帰って配給所に勤めた後、結婚。夫の秀雄さんは義勇隊員として弾運び中に米軍の銃撃と爆撃に遭い、左耳が聞こえなかった。 |
36−03 |
銃撃を受けた米軍に救われて(23分26秒) |
12歳で沖縄戦に遭遇。山中に避難したところで機銃掃射を受け、あごや肘を負傷。民間人の治療を米軍が行なっていることを聞きつけ野戦病院に入院。戦後、努力して高校から英語学校に進学し、琉球政府労働局に就職。数年後、米軍の機関に転職し、人事関係の部署へ。昭和39年、米留制度を利用してハワイの大学に学ぶ。沖縄県傷痍軍人会の最後の会長として職務を全うした。 |
36−04 |
家族を崩壊させた戦争を乗り越えて(29分56秒) |
昭和20年、米軍の銃撃を受け、母は即死、トシ子さんと妹は負傷。米軍の野戦病院で右脚を切断される。7歳。戦後は祖父母と暮らした後、ハワイの収容所から帰った父に引き取られた。父の再婚後、義理の母はトシ子さんを学校に行かせず働かせた。妹と二人で家を出る。松葉杖に頼って働き、妹に中学校を卒業させた後、更生指導所で洋裁を学ぶ。そこで出会った靴職人の夫と、借家で靴屋兼洋裁店を開いた。 |