S48-1二度の撃沈、受傷、そして発病・・・(10分08秒)

昭和19年10月、重巡洋艦「愛宕」に乗艦、レイテへ向かう途中、敵潜水艦の雷撃を受け撃沈され九死に一生を得る。同月26日、戦艦「大和」に乗艦、左舷見張台で見張り任務に就いていた時、敵機の爆撃を受け左足を受傷。受傷後、内地送還のため移乗した油槽船「明石丸」が撃沈され、流れ出た重油が海面を覆い火の海となる。死を覚悟した時、母の顔が目に浮かび「生きろ」という声が聞こえ必死で生き延びた。が、帰国後、肺結核を発病し働き盛りの32歳から43歳まで11年間、入退院を繰り返した。治療薬ストレプトマイシン購入のため財産を使い果たした経済的苦労。受傷、発病に加え死の淵を見た二度の撃沈体験を語る。

S48-2二人で一人、傷痍軍人の妻として(10分14秒)

昭和14年3月入営、満洲独立守備隊第六大隊に配属され満洲へ。8月、ソ満国境ノモンハンで部隊内の決死隊編成に志願、敵軍戦車を爆破し、その破片を全身に浴びて視力も失う。二度目の手術で左眼の視力やや回復。17年、結婚。妻は夫の目となり手足となる覚悟で結婚。いつでも生計を支えられるよう結婚当初から洋裁を学んだ。終戦後、夫は大阪に職を得て夫婦で転居。この頃、夫の顔、肩、胸から受傷時の体内残留破片が出るようになった。いつ失明するか不安な毎日、妻は再び夜間の洋裁学校に通い師範の資格を得た。人生終わりと思ったこともあったが、妻の支えで生きて来られたと語る夫。

S48-3人生を変えた一発の銃弾(09分56秒)

昭和17年9月、中国河北省の戦闘において敵の手榴弾により右背部受傷。更に20年6月、右足受傷。ガス壊疽と破傷風の危険があり、軍医から切断を告げられた。奉天陸軍病院で二度目の手術を受けた翌日、終戦となる。重傷者だけが残され、1年3カ月間中国を放浪、言語に絶する身障者の苦しみを体験。21年9月、復員。国立相模原病院に入院しながら簿記学校に通学。資格を取得し現在に至る。

S48-4夫の両脚となって共に歩んだ人生(23分46秒)

昭和18年満蒙開拓青少年義勇軍に入所。満洲の戦闘訓練で凍傷。右脚関節切断、左脚下腿切断となる。茨城県で入院中に終戦。恩給申請で父に背負われて区役所へ行くも罵倒され申請を断念。家業のクリーニング店を経営。両足義足を隠して運転免許取得。昭和43年「夫の足になりたい」と結婚。夫は製造会社に就職。業務用エレベーターが頭上に落下。脊髄の圧迫骨折で重傷を負い退職。入院した病院で恩給請求により認定される。

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