「人間の尊厳の回復につくした生涯」
手がないなら、ないなりの、できるだけのことをやるしかないわけですからね。
傷病名:左上膊部切断
受傷病年月日:1943(昭和18)年7月30日
受傷病地:中国山西省臨分県
この証言者は、地元山形から上京し、困窮者や病人、孤児などの救済を目的とする施設である養育院で事務の仕事をしていました。1942(昭和17)年には妻と結婚しますが、わずかその2か月後、召集を受けて中国へ出征することとなりました。部隊では庶務の仕事をしていましたが、1943(昭和18)年、出動命令を受けて移動していた時、乗っていたトラックが地雷を踏んでしまい、その衝撃で右ひじを受傷しました。すぐに病院に運ばれましたが、腕は切断することになってしまいました。
退院後は養育院への復職を目指し、利き腕ではない手で文字の練習をする所からの再スタートとなりました。出征前の養育院勤務のときに出会った、両腕を切断しても頑張っている青年との思い出が心の支えとなり、自分にはまだ片腕があるじゃないかと前向きに努力しました。
戦後は民間企業に勤めながら、GHQの政策により苦境にあえぐこととなった傷痍軍人たちの待遇改善を求める、傷痍軍人会の活動に邁進しました。そこには、養育院時代に多くの社会的弱者と関わっていた経験から、何とか彼らを救済していかなければならないという強い思いがありました。
義手(装飾用義手)右腕を切断した戦傷病者が使用していた義手。この方は左腕だけで仕事をすることができましたが、身体のバランスを取るために装飾用の義手を着けていました。
「家族の絆で支え合う」
夜中に足がつってくるのよ。痛くて。痛い、痛い、痛いって。どうしてあげることもできなくて。それが毎日でした。
傷病名:右臀部右大腿部骨折貫通銃創兼右湿性胸膜炎
受傷病年月日:1942(昭和17)年6月12日
受傷病地:中国河南省林県
サラリーマンの家庭に育ったこの証言者(戦傷病者の妻)は、1944(昭和19)年に父親の同僚からの紹介で、夫と結婚しました。夫は、中国で右足を負傷した傷痍軍人でした。初めて会った夫は優しい人という印象で、「国のために負傷してきた人だから、私が一生懸命みてあげないといけない」と思い、結婚を決めたそうです。
夫は、中国での戦闘で右の大腿部を負傷していました。切断は免れたものの、7回もの手術を受けたことで、右足は左足よりも6cmも短くなっていました。農作業はできず、歩くのがやっとという状態でした。夜中には強い痛みが起こり、布団の中で悶え苦しむ日々が昭和30年代頃まで続きました。
足補助器具これを使用していた戦傷病者は、手術により右脚が6cmも短くなってしまったため、左右の脚の長さを揃えるために使用しました。
「二人で一人、傷痍軍人の妻として」
口には出さなかったけれども、やっぱりありがたかったんだよね。それこそ、毎日が感謝、感謝の黙祷を捧げるっていうくらい。
傷病名:顔面砲弾破片創、両眼球損傷、下顎歯牙損傷
受傷病年月日:1939(昭和14) 年8月24日
受傷病地:ノモンハン(満洲国境付近)
この証言者は、1939(昭和14)年に満洲の部隊に配属となり、訓練を終えた二日後に戦闘に加わることとなりました。その時に参加した作戦は、先端に地雷を付けた竹の棒を持ち、敵の戦車に突撃する決死隊になるというものでした。攻撃は成功したものの、爆破した戦車や地雷の破片を受け、全身は傷だらけとなってしまいます。特に顔面の負傷はひどく、右眼は失明し、左眼もほとんど見えない状態になってしまいました。
1942(昭和17)年、証言者の妻は負傷した人の力になることも大事だと家族に勧められ、夫と結婚しました。終戦後、夫は市役所で事務の仕事をしていましたが、残された左眼もいつ見えなくなってもおかしくない状態でした。妻は、夫が万一失明してしまっても生活に困ることがないように、夜間の学校に通って洋裁を勉強し、師範の資格を取るまでになりました。幸い夫の左眼が失明することはありませんでしたが、自分の目となり足となって支えてきてくれた妻に、夫は感謝の思いを伝えています。
卒業証書戦傷病者の妻が通っていた洋裁学校の卒業証書。妻は、受傷で全盲となる可能性のあった夫を支えるため、夜間の洋裁学校に通って勉強し、洋裁の師範の資格を取るまでになりました。
「失明の夫を支えて」
私がもう辛抱してな。どんなこと言われても堪えていこうと決めてな。
傷病名:両眼負傷 右観骨部及外瞼部砲弾破片創
受傷病年月日:1942(昭和17)年1月10日
受傷病地:ルソン島 マバタン半島カラギナン附近
この証言者(戦傷病者の妻)は、お見合いで夫と結婚し、農家の家に嫁ぐことになりました。夫は働き者で優しく、農作業をしたことがなかった妻を支えてくれたそうです。しかし1941(昭和16)年、夫は臨時召集により出征、1942(昭和17)年にフィリピンで両眼を負傷し、全盲となってしまいます。
光を奪われた夫は自暴自棄となり、行き場のない思いを妻にぶつける日々が続きました。国から恩給が出てからは、数少ない気晴らしなのか賭け事にはまり、こどもの教育費も足りず苦労したこともありました。それでも証言者は、結婚式の時に親から言われた、一度家を出るからには何があっても辛抱しなさいという言葉を胸に、夫を支えながら働き続け、二人のこどもも立派に育て上げました。
夫はあまり家計を顧みない人でしたが、家族はその抱えている苦しみの根源に戦争があることを深く理解していました。そんな夫も晩年には賭け事をやめ、家族と一緒に食事をすることが一番の楽しみとなったそうです。
義眼両眼を負傷した戦傷病者が使用していた義眼。箱に書かれている「御賜」の文字は、この義眼が皇室より賜ったものであるということを示しています。
「がむしゃらに生きて、描く」
こういう絵をね、立派に描いていくのが使命だと思っています。
傷病名:右腕肘関節爆弾破片盲管銃創、右足大腿部爆弾破片貫通銃創
受傷病年月日:1944(昭和19)年11月14日
受傷病地:フィリピン ルソン島マニラ港内
1920(大正9)年、静岡県に生まれた証言者は、乗り物の絵を描くのが好きな少年でした。戦中は輸送船の高射砲兵として勤務し、合計で6回もの船の沈没に遭遇するなどの過酷な体験をしてきました。船が好きな彼は、そのような危険な勤務の合間にも、軍艦を見つけては上官に隠れてスケッチを残していました。
1944(昭和19)年、証言者は輸送船「金華丸」乗船中、敵機からの爆撃を受けて、利き腕の右腕と右足を受傷しました。その後右腕の自由は失ってしまいましたが、終戦後、習字教室で子供たちに混ざりながら、左手で字を書く練習に励みました。
戦後は、兄弟と塗装工場を営む傍ら、共に戦って戦死していった戦友たちの鎮魂と、その思い出を描き留めることが使命であると軍艦の絵を再び描き始めました。その絵は地元で評判となり、その頃木製の艦船模型を売り出すための箱絵が描ける人を求めていた、田宮商事(現タミヤ)から声が掛かったことを契機に、画家としての人生を歩み始めることなりました。プラモデルの箱絵に描かれた軍艦や航空機の絵は、緻密かつ迫力のあるもので、今もなお多くのファンの心をつかんでいます。
刷毛、筆画家となった戦傷病者が絵画を描く際に使用していた刷毛と筆。太さや硬さなどの異なる様々な種類の道具を使い分けて描いていました。
「療養所は大きな家族 ~支えあい、助けあい~」
月に三人くらいずつ亡くなっていったんですよ。明日はウチかなあていうような思いが本当につらかったです。
傷病名:第6、11、12、第1腰椎圧迫骨折兼脊髄損傷
受傷病年月日:1941(昭和16)年10月10日
受傷病地:中国河南省
この証言者の夫は、中国での戦闘で脊髄に銃弾を受け、下半身に麻痺、視覚・言語障害に加え、咽頭部にも障害を負うことになりました。当時、脊髄を損傷して寝たきりになるなどの重傷を負った傷痍軍人は、箱根にあった専門の医療施設、箱根療養所に入所していました。箱根療養所では、介護のために家族も一緒に住み込んで生活を送っていました。証言映像ではその生活の様子を妻が語っています。
療養所内は、同じ苦しみや悩みを共有する人たちとの共同生活で、支え合い、励まし合いながら生活を送っていました。戦後の生活が苦しい時代には、竹細工を作って生活費に充てていました。夫も、元は竹材を扱う店で奉公していたこともあって、かごなどを上手に作っていたそうです。
様々な合併症を発症しやすい脊髄損傷者の長期の生存は厳しいもので、入所当初、夫も3年くらいしか生きられないと言われていましたが、妻は懸命な介護を続け、半世紀以上も共に過ごすことができました。
尺八脊髄損傷の戦傷病者が、箱根療養所への入所中に製作した尺八。出征前は竹材を扱う店で奉公していたこともあり、器用に工芸品を製作することができました。