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「受傷した身にまた召集が」

今あるのは運のおかげやなー思うてます。

傷病名:凍傷
受傷病年月日:1942(昭和17)年11月25日
受傷病地:中国河北省蔚縣

 この証言者は、1942(昭和17)年、中国での任務中に天候が急変して、氷点下20度、風速10mの環境下にさらされ、左手の3本の指を凍傷で失いました。内地に戻ってからは陸軍病院でリハビリに励み、退院と同時に兵役免除となりました。
 そして落ち着いた所で妻と結婚しますが、翌年の1945(昭和20)年の6月、再び召集令状が届きました。恐らく今度は生きて帰ってこれないだろうと夫婦共に覚悟したそうです。証言者の予想は当たり、敵戦車の上陸を水際で防ぐための特攻の訓練を内地でさせられていましたが、実戦に移ることはなく終戦となりました。
 証言者は、兵士になる前は市電の車掌をしていましたが、指を失ったことから復職を諦め、戦後は自営の道を目指すことにしました。闇物資の行商人などを経験し、苦労した末にお菓子屋を開くことができました。
 証言映像の中で証言者は、亡くなった人が多くいる時代の中で、指を失うことにはなったが、自分は運が良かったのではないかと振り返っています。

義指
凍傷で失ってしまった指を補うために使用していた義指。装飾用で指としての機能が得られる訳ではないため、出征前の車掌の仕事を諦め、受傷後は新しい仕事を探さざるを得ませんでした。

「義足と妻に支えられて」

戦争だけはいつまでやってるか分からない。キリがないんだから。戦争ほどつらいものはない。

傷病名:両大腿部榴弾破片創
受傷病年月日:1941(昭和16)年5月8日
受傷病地:中国山西省曲沃県候馬鎮

 この証言者は、23歳の時、中国での戦闘で両足を負傷し、右足を切断することになりました。東京の陸軍病院で8か月にわたり療養生活を送ることになりましたが、当時の治療方針は「お前たちは患者じゃない。退院したら何でもできるようにするのだ」という厳しいもので、朝から義足で歩く訓練を繰り返し、昼食も自分達で用意しなければなりませんでした。
 退院後の1944(昭和19)年に妻と結婚。夫婦で空襲も経験し、義足でうまく歩けない中、火の海を逃げ惑ったこともありました。戦後は仕事が少ない中、夫婦で竹細工のザルやかごを作ってなんとか生計を立てていたので、おかずは家族5人で納豆1つだけということもありました。その後、夫は会社に勤めることができ、妻は文房具店を営みつつ、あらゆる面で夫を支えました。
 証言者は、一番つらかったことは何かと聞かれると、人生を振り返って「戦争ほどつらいものはない」と答えています。

義足(大腿義足)
右脚を切断した戦傷病者が使用していた義足。自分の体に合うように日々調整し、修理も自分で行っていました。

「生きる・・・それは死ぬよりつらかった」

こどもと、他のお父さんみたいに遊んであげられなかったっていうのが、辛いと思いましたね。

傷病名:全身爆創両前膊切断、左眼失明
受傷病年月日:1944(昭和19)年7月31日
受傷病地:トラック諸島 春島沖

 この証言者は、1943(昭和18)年に海軍に入り、太平洋上で駆逐艦に乗艦していたとき空襲にあい、両手と左眼を負傷しました。この負傷により両手首から先は切断することとなってしまいました。治療中には人生の先行きに不安を感じて、自殺を図ったこともありました。
 転機が訪れたのは1946(昭和21)年に海軍の病院で特別な整形手術を受けた時でした。その手術とは、前腕にある2本の骨(橈骨と尺骨)の間を割って、物を挟めるようにするというものです。腕の骨を手指のように使えるようになるまでのリハビリは厳しいものでしたが、義手ではできない動作ができるようになったことで、証言者の人生は大きく変わりました。戦後はいくつかの仕事を転々としながらも、受傷前の大工の経験から、自ら工務店を立ち上げました。
 特別な手術を受けたことで、義手よりできることは増えましたが、それでもできないことは多くありました。証言者は、こどもとキャッチボールやコマ回しなどで遊んであげられなかったことが、一番つらかったと話しています。

バール、げんのう、ヤスリ
両手を切断した戦傷病者が戦後に使用していた大工道具。出征前に大工の経験があったため、不自由な腕でありながらも大工道具を器用に使い、建物に板を張るくらいの作業は難なくこなしました。

「努力家の夫を信じて ~失明の夫とともに~」

村の人から「お前も眼が見えなくなったら人の厄介もんだな」と言われたんですよ。そしたら、そこでものすごく奮起しましてね。

傷病名:眼部顔面左肩胛部介達弾創両眼損傷
受傷病年月日:1941(昭和16)年12月25日
受傷病地:香港島 赤柱半島

 この証言者(戦傷病者の妻)は、1943(昭和18)年に夫と結婚し、農家に嫁ぐこととなりました。夫は中国での戦闘で両眼を受傷した傷痍軍人でしたが、農作業をしたこともなかった妻を気遣いながら、一家で農家の仕事に忙しい日々を送っていました。
 結婚当初は辛うじて左眼は見えていたものの、結婚から半年後、急に眼の状態が悪化し、3年もの入院生活を送りましたが、結果的に両眼とも失明してしまいます。退院し、家に帰ってきたものの何もできない夫に対し、村の人から「人の厄介もんだな」と心無い言葉を掛けられることもありました。そこで一念発起した夫は、栃木県にあった東京盲学校付属教育所に入所、寝る間も惜しんで鍼灸マッサージの国家資格を取るための勉強に励みました。
 資格を取った後、1950(昭和25)年に自宅で治療院を開き、証言者も農家の仕事を続けながら夫の仕事を手伝いました。夫は、治療院の仕事をしながら最新の治療法の勉強にも熱心に取り組む努力家で、二人の努力の甲斐あって治療院は多くの患者を抱える評判の治療院になりました。

点字の手紙
受傷により失明した戦傷病者が、失明者のための訓練施設(国立光明寮)から、妻に宛てて書いた点字の手紙。点字の下に書かれているカタカナは妻が書き起こしたもので、妻も夫とのやり取りのために日々点字の勉強をしていました。

「16歳で右手を失って」

手がないと思っていない。ただ短いだけや。

傷病名:右腕関節部挫滅機銃弾創同尺骨同腕複雑骨折
受傷病年月日:1944(昭和19)年8月29日
受傷病地:ニューブリテン島 ラバウル

 この証言者は、14歳の時に海員養成所に入所し、輸送船の機関員となりました。1944(昭和19)年初頭、船がラバウル付近を航行していた時、爆撃を受けて沈没してしまいました。幸いにも彼は無傷でしたが、一瞬で多くの仲間を失いました。ボートで海を渡り、道なきジャングルを1か月以上さまよい、何とか基地にたどり着いた時に生き残っていたのは、証言者を含めわずか7人でした。
 九死に一生を得たのも束の間、今度は基地の病院内で仲間の世話をしていた所、空襲で飛来した機銃弾がその右手を砕きました。ぶら下がった右手を持って医務室に走りましたが、軍医には「切った方が早く治る」と言われ、翌日には切断手術を受けました。当時、彼はまだ16歳でした。
 終戦を迎えて日本に戻った証言者は、印刷関係の仕事に就き、後には自ら印刷会社を興しました。利き腕を失い苦労することもありましたが、持ち前の前向きさと真面目さ、そして仕事に誠実な妻の協力もあり、地域でも評判の印刷屋になりました。

義手(装飾用義手)
右手を失った戦傷病者が戦後に使用していた義手。仕事のときなどはかえって邪魔になるため、普段はあまり使用しなかったそうです。

「シベリア珪肺 ~今も続く後遺症~」

これから自分で百姓していくのは無理だと言われたのが一番つらかったべなあ。

傷病名:眼部顔面左肩胛部介達弾創両眼損傷
受傷病年月日:1941(昭和16)年12月25日
受傷病地:香港島 赤柱半島

 この証言者は、1942(昭和17)年に満洲の部隊に配属され、そのまま満洲で終戦を迎えました。しかし終戦後も日本には帰れず、そのままソビエト連邦の収容所に抑留され、一年半もの間、シベリアで強制的な炭鉱労働に従事させられていました。
 日本に帰ることができた1947(昭和22)年以降、証言者は農業の他、炭焼き、養蚕、酪農など、次々に事業を拡大させていきましたが、1955(昭和30)年に受けた検診で「シベリア珪肺」に冒されていることが判明し、一年半もの間入院生活を送る事になりました。シベリア珪肺とは、抑留中の炭鉱労働で多量の粉塵を吸入したことにより、肺に機能障害が起こる病気です。二度にわたる入院生活では、仕事ができないことから家族に多くの負担をかけ、そのことを申し訳ないと思いながら静養に努める日々を送ったそうです。しかし、農業で十分に働けるだけの体力を取り戻すことはできず、決して無理をしないで自己管理に努め、病気と生涯付き合って生きる道を選ばざるを得ませんでした。

短歌集「抑留中の詩」
シベリア珪肺を患った戦傷病者が、抑留中に詠んだ歌を思い返して書き記したもの。シベリア行きと確信した時の絶望感や、抑留中の過酷な生活、帰国の喜びなどを詠んだ短歌が収められています。

「小学校を出て先生に」

「お前、先生ならできるからの。先生やれ。」とこういう風に言われたんですよ。それがほんとのね、蜘蛛の糸です。

傷病名:左前膊盲貫機銃創左橈骨複雑骨折、右大腿擦過機銃弾弾片創
受傷病年月日:1944(昭和19)年2月18日
受傷病地:南洋群島トラック諸島夏島 救難船「二神」乗船中

 この証言者は、17歳の時に海軍に入り、太平洋上で乗っていた船が空襲を受け、左腕を受傷しました。病院に運ばれた時にはもう手の感覚はなく、切断となってしまいました。当時まだ18歳でした。
 ある時、証言者は義手を付けるために入院していた東京の海軍の病院で、同じく入院中だった上官と出会います。若くして腕を失くした証言者の将来を案じた上官は、彼に学校の先生になることを勧めます。当時の日本では、傷痍軍人の社会復帰を支援するために、傷痍軍人を学校の先生として養成する仕組みがありました。彼は、先生になるための条件だった中学校を卒業していませんでしたが、海軍で砲術学校を出ているからその代わりにしようと、上官が便宜を図ってくれたことで、先生になる道が開けました。
 無事試験に合格し先生になってからは、感覚のない義手がこどもたちに当たっては危ないと、義手を付けずに教壇に立ち続け、生涯を教育に捧げました。

国民学校教員免許状
国民学校(戦時中の小学校)の教員免許状。この戦傷病者は、傷痍軍人のための教員養成所で教員資格を取得し、小学校の先生として生涯を捧げました。
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