傷痍軍人の就労問題
戦争は、時代・場所を問わず、多くの傷病兵を生み出してきました。先の大戦では、戦争の大規模化と長期化を招き、多くの兵士が投入されたことで、傷病兵の増加も著しいものとなりました。戦場での受傷で手や足を失う、目を負傷するなど、日常生活を送るにも困難な状態のまま社会に戻らざるを得なくなる者も少なくありませんでした。当時は第1次産業(農林水産業等)と第2次産業(建設業、製造業等)が全就業者の7割を占める時代で、肉体労働や現場作業が中心の仕事が多く、元の仕事には戻れなくなる人も少なくない状況でした。
数多く生まれる傷痍軍人をどのように就労へと導いていくかは、まさに国の大きな課題の一つで、国は彼らを再び社会に復帰させるために様々な取り組みを行っていきました。当時、傷痍軍人に対しては傷病の重さに応じて恩給が支給されていましたが、恩給だけに頼って生活できる人ばかりではありませんでしたし、全ての傷痍軍人を国が金銭の給付だけで養うのは財政面からも限界がありました。また、国力の全てを戦争に注ぎ込む総力戦体制の中では、たとえ負傷した者であっても貴重な労働力として銃後での貢献が期待されていました。
こうした背景を受けて、1938(昭和13)年、国は傷痍軍人への援護の強化を図る目的で、傷兵保護院(翌年に軍事保護院と改称)を設置しました。その機関の重要な施策のひとつに傷痍軍人への「職業保護」がありました。職業保護とは、就職の斡旋や訓練による傷痍軍人への就職支援を指す当時の言葉です。職業保護では、傷痍軍人に自立の精神を持つことを促し、その傷病の特性に応じた技術と職場を与え、再び社会の一員に戻れるようにすることが重視されていました。このような戦中の取り組みは、対象が傷痍軍人に限られてはいますが、現代の障がい者に対する就労支援施策の前身ともいえる制度で、戦中はその充実が急速に進展した時期でもありました。
傷痍軍人の就労への道
戦中に行われていた傷痍軍人の職業保護施策では、軍に入る前に就いていた元の職業に復帰できるようにすることが第一とされ、そのための就職の斡旋や訓練が行われていました。しかし、傷病の状態によっては元の職に戻ることが難しいことも多くありました。その場合は、適当な職業の紹介とその訓練を行い、新たな職場で活躍するための道を開きました。当時傷痍軍人に対して行われていた職業保護施策は5つに分類されます※。
1.職業指導
職業指導の専門職員が傷痍軍人の相談に応じるものです。対象は除隊後の傷痍軍人だけではなく、陸海軍病院・療養所に職員が出向いて行って、入院中からその指導に当たりました。
2.就職斡旋
職業指導の専門職員が、職業紹介機関を介して本人に適した就職先を斡旋するものです。
『寫眞週報』第22号p.4
3.職業準備教育
治療が終了し、義肢の装着やリハビリテーションが必要となった傷病兵が入院していた病院で行われていた職業訓練です。退院後の本格的な職業訓練の前の準備あるいは基礎という位置づけで行われました。今でいう作業療法としての性格も有していました。
4.職業再教育、職業補導
職業再教育とは、各道府県が設けた施設で行われる短期の比較的簡単な職業訓練のことです。職業補導は国が設けた施設で行われる長期の比較的高度な職業訓練を指します。
5.就職後の補導
職業保護施策により就職した者や自営業者に対して、勤務状況や健康状態などを確認するアフターケアを行いました。
陸軍病院での和文タイプライター訓練
上田 早記子(2012)「昭和十年代の臨時陸軍病院におけるリハビリテーション:傷痍軍人の就労への道」『四天王寺大学紀要』第54号
傷痍軍人職業補導所
戦中に存在した職業保護施設の内、国が設置し訓練期間が長期で比較的高度なものを職業補導所、各都道府県が設置し訓練期間が短期で比較的簡単なものを職業再教育施設といいます。
職業補導所としては、大阪府堺市と福岡県小倉市に国直営の傷痍軍人職業補導所が、東京には財団法人啓成社に委託する形で東京都職業再教育所が設置されていました。これら3つの施設はほぼ同一の機能を持つとされ、元の職業に就くのが難しい傷痍軍人が新たな仕事に就けるように様々な職業訓練を行っていました。
訓練の期間は科目によって1年から2年で、うち半年間は委託先の商店や工場、専門学校など外部での訓練も含まれていました。施設の場所は限られ、訓練は長期間にわたりましたが、寄宿舎もあり食費も無料でしたので、遠方の人でも入所しやすいようになっていました。
訓練科目は時代や施設によって異なりますが、例えば1942(昭和17)年の国直営の職業補導所では、洋服科、洋裁科、家具工芸科、工場経理科、製図科、旋盤科、精密機械科、仕上科、フライス科、溶接科、木型科、鋳物科、義肢科がありました。各科目の履修には傷病の程度による条件があって、例えば洋服一般の技術の習得を目指す洋服科では、利き手の親指・人差し指・中指と、反対の手の親指と人差し指が残っていること、両脚を切断している場合には義足で機械の操作ができることなどが目安として定められていました。
職業補導所では、義手や義足を使った専門的な職業訓練が行われることもあって、それぞれの仕事に適した義肢や補助具の研究、そしてその製作も補導所の大きな役割の一つでした。
ハンマー作業(寫眞週報第84号)
適正検査(寫眞週報第84号)
傷痍軍人教員養成所
傷痍軍人の職業訓練施設には学校の教員を養成するための専門施設もありました。これは当時、多くの男性教員が出征し教員が不足していた状況を背景に、傷痍軍人を教員として養成することで補おうとしたものです。養成所は、大学や当時の教員養成機関であった師範学校の中に設置され、中等学校の教員養成所を東京・広島に計2か所、小学校の正教員の養成所を東京・京都・宮城・岡山・福岡に計5か所、小学校の准教員の養成所を福島・石川・和歌山・島根・大分に計5か所設けていました。
これらの養成所の入所には試験を受ける必要があったほか、取得できる教員免許に応じて必要な学歴が定められていて、最も初等レベルである小学校の准教員の養成所でも、当時義務教育ではなかった高等小学校の卒業が条件にありました。ただし下士官以上であれば学歴を問わなかったり、軍の学校を卒業していれば相応の学力を有しているとみなされたりするなど、間口は広げられていました。
免許取得に必要な期間は時代や免許の種類によって異なりますが、例えばこの制度が始まった1939(昭和14)年の小学校の正教員の養成所では1年間で免許の取得が可能でした。入所中は寮に入って同じ境遇の仲間と共に勉学に励むことができ、修学手当も受給することができたので、お金の心配をせず卒業まで集中して取り組むことのできる環境となっていました。
島根県の傷痍軍人教員養成所の寮(『記念誌至誠寮』p.6))
寮での食事の様子(『記念誌至誠寮』p.4)
民間での傷痍軍人雇用事例
平塚傷兵工場
傷痍軍人への就労支援は国や都道府県が行うものの他に、民間企業が社会貢献事業の一環として行っていたものもありました。1941(昭和16)年に操業を開始した「平塚傷兵工場」はその代表例です。
神奈川県平塚市に所在したこの工場は、正式名称を株式会社平塚自動車部品製作所といい、トヨタ自動車工業株式会社の発意により、傷痍軍人に対し生涯にわたって働ける職場を提供することを目的に創設されました。失明者や手足の切断者のような重傷者であっても、身体が丈夫で社会復帰の志があれば、むしろ積極的に採用を行っていました。戦争末期には約200名の従業員の内、約120名が傷痍軍人だったといいます。
この工場では、始め自動車エンジン用ピストンを専門に製造し、後には航空部品の加工も行っていました。工場での作業と言えば、技術とともに力も必要ではありますが、特別に作られた機械や設備の力を借り、また適切な段取りを組むことによって、障がい者であっても能率的な作業ができるように工夫されていました。また、家族と同居ができる社宅の他、食堂、浴場、運動場、診療所なども備え、生活の面でも安心して暮らせるよう整備されていました。
「平塚傷兵工場」は、現在の障がい者雇用の先駆けとも言える先進的な企業でしたが、戦後は金融引き締め政策や原料高のあおりを受けたことで経営難に陥り、1958(昭和33)年に事業譲渡される形で「傷兵工場」としての歴史に幕を下ろしました。現在は、敷地や設備を引き継いだ平塚金属工業株式会社が、同じくエンジン用ピストンの製造で経営を続けています。敷地内にはその当時の建物が数多く残されており、かつての面影を今に伝えています。
工場の様子(『平塚傷兵工場要覧』口絵)
操業開始当時の事務所棟(『平塚傷兵工場要覧』口絵)
現在の事務所棟(協力:平塚金属工業株式会社)
戦後の就職難とそれぞれの道
終戦後日本は、非軍国化主義政策を志向するGHQの占領下に置かれたことにより、一部の重傷者を除き恩給が停止されるなど、軍人に対する多くの優遇措置が廃止となりました。その一環として傷痍軍人に対する職業保護施策も廃止となり、それまでに行われていた様々な取り組みは傷痍軍人に限定しない形へと変わっていきました。例えば、大阪と福岡にあった国立の傷痍軍人職業補導所や、各道府県にあった職業再教育施設は、復員者や戦災者、引揚者なども含め広く一般の人々を受け入れる施設へと変わりました。施設が一般に開かれるということは、それまで優先的に受けることができた職業訓練や仕事の斡旋について、傷痍軍人にとってはその競争率が上がることを意味しました。
また、終戦直後の日本は急激なインフレーションなどの経済的な混乱に加え、大量の復員者や引揚者が国内に戻ってきたこともあり、健常者でさえ失業問題が深刻な事態となりました。働き口が限られる中では、作業能力にハンディを抱える傷痍軍人は敬遠される存在です。戦中には国のために体を捧げた尊敬すべき存在として、積極的に職場に迎えることが美徳とされた社会風潮もありましたが、終戦を境にそのようなことも無くなりました。
この当時の状況について、傷痍者生活文化研究会という団体が、彼らの境遇改善を訴えるため1946(昭和21)年に出版した本には次のように記されています。
現在の世間の戦傷者に対する関心は誠に冷い限りである。殊に職業問題に至っては、傷痍者を使用する会社、工場は全くまれな事である。殊に新規採用に至っては皆無と云っても決して過言でないほどわびしいものである。此等の失業者群に対して政府は何等根本的な政策を持つわけでもなくただ放任のままにある。(植田端午著『未解決』p.15)
このような失業問題に対し、国は1947(昭和22)年に身体障害者職業安定要綱を定め、身体障がい者に対する職業訓練や職業指導、就職斡旋を定めた他、1949(昭和24)年に身体障害者福祉法で身体障がい者の更生指導を定めるなど解決を図りましたが、それでも障がい者の雇用が進展するまでには時間を必要としました。
こうした社会状況の中、戦傷病者たちは自ら仕事を見つけたり、職業訓練の制度を活用したりと苦労を重ねながら、それぞれの道を切り開いていきました。