荒んだ暮らしから脱け出し、工事現場の世話役に
この戦傷病者は、1944(昭和19)年、台湾の海軍航空基地で整備兵として勤務していたところ、空襲で全身に無数の弾の破片を浴びました。何度も手術を受けましたが、右目は失明、左手の親指・人差し指、中指を切断し、股関節も受傷したため杖なしには歩けない身体になってしまいました。
終戦後、日本に戻ると既に父親は亡くなっていて帰る家はなく、労働者の世話役をしていたおじの家に身を寄せることになりました。彼もおじと同じ職場で労働者達にパンを配る仕事を始めました。この頃、余ったパンが闇市で高く売れたことで羽振りも良くなり、いつしか闇市での顔役として「特攻崩れの三ちゃん」とあだ名されるまでになりました。
しかし、ある時転機が訪れます。拳銃所持を疑った若い警官から身体検査を受けさせられ、「自分も戦争中は特攻隊を尊敬していて、志願しようと思っていたけれど、今のあなたの姿を見ていたら幻滅した」と言われたのです。その言葉にショックを受けた彼は、自分が暴力団かと見紛うほどに堕落していたという事実に気付かされ、人生のやり直しを決意します。おじの家を出たものの行く当てはなく、日雇いの仕事をしながら、駅での路上生活を半年ほど続けました。
その後、ようやく能力が認められ、工事現場の世話役として採用されます。海軍時代に培った技術を活用して難工事を成功させますが、周囲からの風当たりは冷ややかなものでした。「障がい者に何ができるんだ」などと心無い言葉を浴びせられたり、活躍を妬んだ先輩が放った暴漢に襲われたりすることもありました。周囲を見返すためには資格を取って実力を証明する必要があると考えた彼は、寝る間も惜しんで勉強に励み、次々に資格を取得していきます。その努力は実を結び、次第に大きな工事を任されるようになって、1973(昭和48)年には山陽新幹線造成工事の現場所長も務めました。
1級土木施工管理技士合格証明書(複写)障がい者に対する風当たりの強い時代の中で、工事現場の世話役となった戦傷病者が自身の実力を証明するために取得した数々の資格のうちの一つ。
施行管理者として携わった製鉄所造成工事の現場
職業訓練を受けて、夫婦で洋裁店を営む
この戦傷病者は、1943(昭和18)年に陸軍へ入隊し、満洲での警備任務に従事していた所、終戦を迎えました。終戦後にはソビエト連邦に抑留され、寒さと空腹に耐えながら、炭鉱での重労働に従事させられていましたが、1947(昭和22)年、作業中に右足が機械に巻き込まれ、手術で切断することとなってしまいました。現地の病院で手術を受け、松葉杖を使って歩けるまでには回復しましたが、抑留生活は更に約1年間続きました。 日本に帰ってからは義足を作ってもらい、松葉杖なしでも歩けるようになりましたが、自分の足では立ち仕事をするのは難しいと考えていました。そんな折、職業訓練を受けられる施設として神奈川県に身体障害者公共職業補導所ができて、洋裁科の募集が始まったことを耳にしました。これからは洋服の時代だと思い、一念発起してそこに通うことにしました。郵便局に勤めていた父親が、当時まだ高価だったミシンを退職金で買ってくれたことが忘れられないそうです。父の応援に応えるべく訓練に励み、並行して洋裁学校にも通って更に技術を磨きました。 1952(昭和27)年、公共職業補導所を卒業し、地元の洋裁店に就職しました。洋服の需要が高まってきた時代ということもあって、忙しい日々を送りました。その後、洋裁店の同僚だった妻と結婚、1963(昭和38)年には夫婦で洋裁店を開きました。職人気質で口下手だった夫に代わって、妻が注文をもらってきたり、取引先への依頼に行ったりと、夫婦で支え合って店を切り盛りし、60歳を迎えて引退するまで、洋裁一筋に仕事に取り組みました。
卒業証書(神奈川身体障害者公共職業補導所)右脚を失った戦傷病者が、洋裁の技術を習得するために通っていた身体障害者公共職業補導所の卒業証書。
義手で継ぐ家業の農家50年
陸軍兵士として内地に勤務していたこの戦傷病者は、終戦前日の1945(昭和20)年8月14日の夜に始まった高崎空襲に遭遇しました。火事のなか、家屋の延焼を防ぎ避難路を作るために、建物を壊す作業に従事していたところ、爆弾に吹き飛ばされて左腕と左足を受傷しました。意識不明のまま陸軍病院に運ばれ、気がついた時には左手がなく、目も見えない状態でした。病床で終戦の事実を知った悲しさと悔しさ、そして身体に不自由を抱えることになってしまった今後を憂い、悶え苦しむばかりでしたが、家族や看護婦さんの励ましと、同じ境遇の患者同士での交流を通して気持ちがだいぶ楽になったそうです。
幸いにして目は見えるようになり、足のケガも歩けるまでに回復しましたが、切断した腕の痛みは続いており、義手を付けるための手術も必要だったので、専門の病院である臨時東京第三陸軍病院に転院することになりました。
この病院では、その後の社会復帰のために自立の精神が重んじられ、患者とはいえ食事の準備から洗濯まで、入院生活中のことは全て患者達でやる必要がありました。食事の時には片手の者が二人一組になって、食器を持つ者とご飯を盛り付ける者で共同作業し、洗濯は足で押さえて片手で洗う、紐を結ぶ時は口でくわえて片手で結ぶなど、厳しい病院生活の中で、何でも自分でやって生活するための技を身に付けました。
家に戻ってからは家族の助けを借りながら、家業の農業に50年以上取り組みました。義手は、畑を耕すためにクワを持ったり、水やりのためにバケツを持ったりと、農作業をする上で欠かせない存在で、作業で酷使したために修理や新調を何度も繰り返しました。後年には農業の機械化で作業の負担も減って破損も少なくなりましたが、それでも義手無くしては仕事にならず、血を通わせて苦労を共にしてきた義手に感謝の気持ちを持っていると残しています。
義手左手を失った戦傷病者が、家業の農家として働く中で活躍した義手。
特別な義手で電気技師に
この戦傷病者は、1943(昭和18)年、偵察のために乗っていた飛行艇の事故で、右腕と右足の先を失いました。除隊後は中学校の先生の紹介で化学工場に勤めることとなり、工場内の変電所で点検や修理の業務を担当しました。しかし、この時に支給されていた義手は、先端に曲鉤というフック状の金具が付いただけのものでした。両手で物を持てなければ、点検の時にバインダーとペンを同時に使えませんし、修理作業も困難です。
困っていたところ、たまたま見に行った映画が、この問題を解決するヒントになりました。それは『我等の生涯の最良の年』というアメリカ映画で、そこには肩や腕の力を使って自在に物を挟んで持てるように作られた「能動義手」を使う俳優が出演していました。これなら変電所での仕事ができると思い、早速能動義手を手に入れ仕事の中で活用しました。
電気保安に関する資格も取るなど、順調にキャリアを重ねていきますが、1963(昭和38)年、大きな壁が立ちはだかりました。法律が変わり、電気工事の作業をするには別の資格が必要となったのです。その資格取得には筆記試験だけではなく、電線の柔らかい銅線を傷つけないように被覆を剥いだり、電線同士をねじり合わせて接続したりするような、細かな作業が求められる技能試験にも合格しなければなりません。能動義手とともに何十回、何百回と作業の練習を重ね、足まで使う独自の工夫を加えることで、何とか合格することができました。
能動義手は3年ごとに作り替えなければならない程、仕事をする上で欠かせないものでした。しかし、義手自体は重く、動かすにも肩や腕に負担がかかり、付けているのは苦痛だったそうです。定年を迎えた時に一番良かったことは、この義手をもう毎日義務として付けなくて良いんだという解放感だったと語っています。
能動義手右手を失った戦傷病者が仕事で使用していた能動義手。義手の先端にあるフック状の金具と、肩で固定するハーネスがケーブルでつながっており、腕を動かすことで物を挟むことができるようになっています。
能動義手でテスターを持つ
義足の商社マンとして世界を駆ける
この戦傷病者は、戦時中に三菱商事の商社マンとして、ビルマ(現ミャンマー)の支店で働いていましたが、そこで現地召集を受けて1944(昭和19)年11月に自動車部隊に入隊しました。時は膨大な犠牲を出したインパール作戦の後で、ビルマからの撤退が進む最中でした。1945(昭和20)年2月、運転の任務に就いていた際、イギリス領インド軍による爆撃を受けて左足を負傷し、手術でふくらはぎを切断することとなってしまいました。空爆が続く中、病院では傷病兵を残して先に皆逃げてしまったため、松葉杖を頼りに何とか現在のベトナム、ホーチミンまで逃げ延び、終戦を迎えました。
日本に戻ってからは、三菱商事に復職し、本店人事部に所属することになりました。しかしまだ歩けるような状態ではなかったので、療養生活を送りながら義足を付けるための手術を受けることになりました。当時は食糧事情も悪く、医療品も行き届かない状況で、そのような中での不遇を気遣ってか、会社からは社長の名義で義足と松葉杖が贈られました。彼はその時のことを「感激した」と残しています。義足を装着できるようになったことで、彼は再び商社マンとしての人生を歩み始めました。
その後、GHQの指令により会社が解散させられるという憂き目にも遭いましたが、三菱商事が再発足して1956(昭和31)年にイランへの赴任が決まったのを皮切りに、西アフリカ地域、オーストリア、アメリカなどに駐在し、世界各国での商取引に携わってきました。言葉も文化も知らない場所で一から始めるには相当の努力が必要ですが、負傷しながらも自力でビルマから退却した経験から得た、自分の力で考えて行動する意志の強さが大きな支えとなりました。
義足左脚を失った戦傷病者が、商社マンとして働くに当たり、その歩みを支えてきた義足。