戦傷病者の碑

受傷地付近にて

 平成27年度は、前半に引き続き関東圏6名(東京1名・埼玉1名・千葉2名・茨城2名)、沖縄県5名の証言映像を収録しました。

 当初は、千葉県内で6名を想定していましたが、次々とキャンセルや変更が発生して人数が減少したため東京・埼玉、ついには茨城を含めた関東圏として収録することになった次第です。沖縄は県内全域が戦場となった関係から、軍人だけでなく軍属・準軍属の方も多く、様々な方が戦争に駆り出されていました。そうした関係から多くの方が収録できるものと期待していたのですが、旧沖縄県傷痍軍人会事務局の方にお伺いしたところ「遅かった」と言われてしまいました。それでも、唯一の地上戦を体験した沖縄ならではの過酷さを話していただける方を選定して実施しました。

 地域性を実感させられたのが沖縄県です。昭和20年4月に米軍上陸して沖縄そのものが戦場と化していたため、収録者の受傷年はまさにこの時期です。小学生・中学生が軍隊の下働きのような役目をさせられた結果、米軍に撃たれて負傷している場合(最年少は6歳)がほとんどです。そのため男女に関係なく負傷し、全員が米軍野戦病院に収容されています。全員入院したものの、次々と入る負傷者に完治しないまま自宅待機となります。その自宅も、米軍に爆撃や焼却されたりして壕やガマでの生活をしている方もいます。
 意外だったのは、終戦の玉音放送を知らないということです。9月2日の戦艦ミズーリ号での降伏文書調印後も沖縄は戦闘が続き、9月7日、米軍は琉球列島守備軍を呼び寄せ降伏調印を行い、沖縄戦は終結しました。玉音放送からじつに23日後、降伏調印となって平和が訪れたのです。
 戦後も米軍統治下におかれていた沖縄は、昭和47年に本土復帰(ドルから円へ)になるまで日本領土ではなく、琉球政府ということになります。戦後も長期間、日本であって日本でない沖縄の、本土の人にはわからない多くの苦悩がありました。

 少しでも多くの戦傷病者の収録を予定しておりますので、戦傷病者とそのご家族の方は、この機会に証言映像で記録することをお勧めいたします。ご連絡をお待ちしております。

 しょうけい館 学芸課 03-3234-7821

Related Contents

2016年