昨年度収録した鹿児島・宮崎・栃木の証言映像が完成しました。
 館内の情報検索コーナーにおいて閲覧することができますので、ぜひご覧ください。

鹿児島県

「それでも空へ憧れる」23分47秒

 逓信省航空機乗員養成所卒業後、臨時召集され陸軍南方航空輸送部に入り、作戦の地図・弾薬を輸送。天候悪化が原因で墜落。機外に放り出され、意識を失い右半身に火傷を負う。結合した五指や閉じられない瞼を切り開く。耳は欠損状態のため肉を移植。戦後、再び空への憧れをもっていたが、変形した指のため断念。福祉活動に従事し、「人生に悔いなし」と。

「闘い続けた半生」24分17秒

 徴兵検査で甲種合格。部隊では軽機関銃の射手として先頭を進んだ。あごの下に腫れものがでて隔離。内地還送後、敬愛園へ入所。昭和23年頃、ハンセン病の特効薬が発売され毎日打った。園内に傷痍軍人会「星塚親和会」を発足。国会陳情でハンセン病の格上げ(3項症)と年金支給の獲得を実現。薬の副作用で指が変形、顔面麻痺、全指麻痺、機能全廃となるも99歳を迎える。

宮崎県

「片脚を失くしても前へ進む」21分31秒

 昭和16年、徴兵検査で甲種合格後、開戦。高射砲第四連隊へ入隊。中国から南方へ。爆撃弾で吹き飛ばされ、右脚が膝から折れた。陸軍病院で、麻酔なしの右脚切断手術で気絶。終戦で米軍が駐留して缶詰等を支給された。戦後、再手術するなど義足で苦労。職もなく広島で店の手伝いをするなどして生計を立て、その後は恩給も貰えるようになり生活も安定したと語る。

「妻が支えた半世紀」17分40秒


日南海岸


 夫は満州で両足凍傷となる。右足は中央部分から、左足は指の部分から切断のため走れなかった。3町歩の畑で様々なものを植えた。この外、製茶やうなぎ養殖なども行なった。主人はわがままで正義派。自分では何もできなかったが、腹はきれいだと周囲の人に言われた。足が不自由な夫のため一人で働いた。主人が死ぬ間際に妻の名前を叫んでいたことを後から知った。

栃木県

「死んで花実が咲くものか」24分09秒

 海軍に入団して硫黄島に上陸後、通信兵として蒸し風呂状態の地下壕に入る。炸裂した至近弾で受傷し、米軍の捕虜となった。米本土に渡った捕虜は60人程度。戦後日本に帰る。右手の欠損部分神経を抜いていないため先端は過敏な状態。仕事は二次試験で落とされた。手が原因だった。東武へ入社し、定年まで勤めた。米軍に救われたことを感謝。

「通信兵の見た硫黄島」19分43秒

 通信兵が見た玉砕の島「硫黄島」の紹介。上陸前の艦砲射撃の激しさ。米軍上陸前にフラッグマンが海岸にレッド・イエロー・ブラックと立てた旗を目印に部隊が上陸。各部隊単位で掘った壕は18キロ。縄張り意識が高く、他の兵が壕に入ることはさせなかった。異常な環境下、硫黄島で受傷し意識を失い米軍の捕虜になったがため、証言。

(学芸課)

Related Contents

2016年