今回、ご紹介する資料は、証言映像を収録した立花誠一郎さんから寄贈された「トランク」一式です。立花さんは、昭和17年、現役兵として第7航空教育隊に入営し、中国戦線での戦闘を経て、昭和18年南方へ派遣され、ニューギニア島ウエワクに上陸しました。戦況悪化の中、「地球が割れた」と思うほどの艦砲射撃で反撃もできないまま、オーストラリア軍の捕虜となります。オーストラリアへ移送され、マラリア発症のため赤十字病院へ入院後、カウラ収容所へ移送されました。収容所は、イタリア兵と日本兵が別々に収容されていました。その後、間もなく体調不良にて診察を受けたところ、ハンセン病と診断されたのです。イタリア軍医から発症を告げられ韓国人の通訳から「らい病」と聞かされました。しかし、当時は「らい病」がどのようなものか全く分からないままでいると、衛生兵から病棟より離れるよう伝えられ、病棟の横にあった炊事場から10mほど離れた場所に張られた天幕の所へ連れて行かれ、そこに隔離されました。これにより立花さんの収容所生活は、一変したのです。
昭和20年8月5日、収容所の日本兵が脱走を図りました。「脱走」というより「自決」を覚悟した行動といったほうが正しいのでは、と思えるほどです。まるで「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」をそのまま実行したようにもみえます。立花さんは幸か不幸か、隔離されていたため、この「脱走」にすら加わることもできず、ただ傍観せざるを得ない状況でした。その胸中は、複雑なものがあったのではないでしょうか。
そうした複雑な思いを救ったのが、トランク、ギター、マンドリンなどを作る方との出会いでした。その人は道具もない中、器用に手作りしていました。この人に刺激を受けた立花さんは、トランクを作ることを思い立ちました。その時に作ったのが、今回、寄贈されたトランクです。
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