結核
結核は、ドイツの医師であり細菌学者のロベルト・コッホ(Robert Koch,1843-1910)によって発見された結核菌によって引き起こされる感染症です。
一般的には肺結核が知られていますが、結核菌は肺の病巣からリンパ管や血流を介して全身に広がることがあります。胸膜、皮膚、リンパ節のほか、腸、泌尿生殖器(尿管、膀胱、子宮内膜、精巣、前立腺など)、骨、関節などにも感染し、発症する可能性があります。特に、骨や関節に結核菌が感染した状態は「結核性カリエス」と呼ばれます。
発病の要因には、過労や睡眠不足、栄養不足、不衛生な環境などが挙げられます。結核菌に感染しても免疫によって発症しないケースもありますが、発症した場合は、咳、痰、血痰、胸痛、呼吸困難といった呼吸器症状のほか、発熱、倦怠感、食欲不振など、全身に多様な症状が現れます。
結核の予防には、弱毒生ワクチンのBCG接種が用いられます。かつての小中学校の健康診断ではツベルクリン反応検査を行い、陰性者にBCGを接種していましたが、この制度は平成17年に廃止されました。結核診断を経験した世代には、結核予防の歴史を感じさせるエピソードかもしれません。
結核は、1950(昭和25)年まで日本の死因第1位を占めていました。医療の進歩により治る病気となりましたが、現在も国内で年間1万人以上の新規患者が発生し、命を落とす例も少なくありません。世界に目を転じても、三大感染症として今なお流行が続いています。結核は、決して過去の病ではなく、現在も脅威となる感染症のひとつとして、正しい知識を持って対応すること、予防につとめることなどが呼び掛けられています。
『戦争と結核』
昭和18年発行の戦争と結核について記された、およそ20センチ厚、1280ページにもなる本。軍隊での感染患者の収容体系なども知ることができます。
「写真週報」63号 昭和14年5月
記事「健康習慣 結核と闘ふ」結核とは何かを紹介するだけでなく、治る病気であること、予防や療養法についても記されています。
軍隊と結核
日本における結核の蔓延は、明治期の産業革命による労働環境の変化が端緒となり、国民の間に感染が急速に広がっていくようになりました。昭和期の結核感染は、1931(昭和6)年の満洲事変と日中戦争の開始によってピークを迎えます。長期化する戦争によって、特に青年層の男子の死亡率が顕著に高かったのも大きな特徴です。
こうした結核の蔓延等により、予防対策が国策として掲げられていきますが、国民の体位低下は軍にとって深刻な問題でした。そのため、徴兵検査における結核罹患者の発見や、軍隊内部での集団感染を未然に防ぐための対策は極めて重要なものとなっていきました。
軍では、徴兵検査の際、家族を含めた既往歴等の調査の徹底を軍医に指導していました。また、1940(昭和15)年度より、従来の各種病原検査に加え、レントゲン胸部間接撮影法の実施が始まり、1941(昭和16)年からほぼ全員に実施されるようになりました。感染者の入隊は、集団生活をおこなう軍に大きな損耗をもたらすものとして認識されており、その防止には細心の注意が払われていました。
常に一定数の兵員を確保しなければならない軍にとって結核の予防は大きな課題のひとつで、教育、軍務と休養のバランスを取ることが重要とされていました。
感染が確認されると、患者は隔離して収容され、感染源となりうる被服、寝具、食器等の消毒が徹底されました。
このように早期発見と早期の対策が肝要とされましたが、予防策が講じられても、戦地の部隊では作戦の長期化や、過重な業務の遂行、慣れない環境下での生活が影響し、特に寒冷地での感染は増え続け、除隊理由の第一位を占めつづけていました。
レントゲン機器
レントゲン撮影の様子。徴兵検査における結核罹患者の早期発見と、軍隊内部での集団感染を未然に防ぐための対策は、軍にとって極めて重要なことでした。
陸軍戦時結核患者収療体系図
出典:坂口康蔵ら編『戦争と結核』昭和18年日本医事新報社
結核の治療
結核は、アメリカの細菌学者であるワクスマン(Selman Abraham Waksman,1888-1973)らがストレプトマイシンを発見してから結核の特効薬が創られるまでは、積極的な治療法や薬がなく、不治の病とされていました。
当時、自然療法、大気安静療法、開放療法など、呼び方は様々ありましたが、空気の新鮮なところで静養し、滋養のある食事を摂って、健康を取り戻していく“静養”と“安静”をおこなう方法がとられていました。
1914(大正3)年頃から、結核菌が広がり悪化することを抑えるために、脇の下に太い針を刺して、空気を注入し肺を萎縮させ、肺の動きを抑制する人工気胸術が開発されましたが、患者にとって大変な苦痛を伴う処置でした。
昭和期に入ると、肋骨を切除して胸郭を小さくし、肺を圧迫して結核菌の活動を止めること等を目的とした胸郭形成術(外科手術)も行われるようになりました。しかし死亡例も多く、手術を受ける患者は常に精神的な不安に悩まされました。
ストレプトマイシンが日本へもたらされたのは戦後のことでしたが、当初は大変高価なもので簡単には入手できない薬でした。正式に日本へ入ってきたのは1948(昭和23)年12月のことで、1951(昭和26)年頃から他の薬とともに普及してきたと言われています。
また、治療薬が登場してからも、投薬だけで結核が治るとは考えられていなかったため、外科療法との併用も行われていました。結核に対する様々な外科療法の発達をみたのは昭和20~30年代でしたが、術後の死亡、合併症の発生、低肺機能患者も多く生じたとされています。
東京療養所の外気舎 建物には大きな窓が設けられ、外気を取り込み療養に専念できるよう設計されています。この外気舎は、傷痍軍人療養所時代から昭和41年まで使われたもので、現在は清瀬市の指定文化財となっています。
結核予防会
1939(昭和14)年、皇后陛下の令旨と下賜金により設立された結核予防会は、調査研究、普及啓発活動、結核予防職員の養成など多角的な活動を展開してきました。
また結核研究所は、結核予防対策の基礎となる研究に加え、診療や健康相談、集団検診を実施してきました。戦時中は、戦禍による施設焼失という苦難に見舞われましたが、終戦直後から街頭で健診を継続。これが現在の「結核予防週間」のルーツとなりました。
このほか、1975(昭和50)年結成の全国結核予防婦人団体連絡協議会も、複十字シール募金や広報活動を通じて、国民の結核予防を力強く支え続けています。
ソ連の炭鉱で強制労働を強いられ、シベリア珪肺を患った戦傷病者の団体も、結核予防会の医師らに療養の指導助言を求めたりするなど、肺を患った戦傷病者との関わりがありました。
結核予防会は、常に時代の先駆者として、結核予防と医療活動の進展に寄与し続けています。
簡易年表
| 1939(昭和14年) | 財団法人結核予防会 設立 |
|---|---|
| 結核研究所 開設 | |
| 1947(昭和22)年 | 結核研究所附属療養所 開設(現複十字病院) |
| 1949(昭和24)年 | 「結核予防週間」 開始 |
| 1952(昭和27)年 | 国際結核予防連合(IUAT 現IUATLD)加入 |
| 1954(昭和29)年 |
「結核の統計」発行 以降毎年発行 |
結核予防会ホームページより抜粋
このほかの様々な活動内容は、機関紙「複十字」やホームページで公開されています。
企画展会場では、『生きぬく―回復者の記録―』(制作・所蔵結核予防会、1961年)を上映します。この映像は、結核が治癒しても、就職差別や偏見をうける回復者に対する理解を促すドラマです。
結核療養所
満洲事変から日中戦争にかけて軍隊内で結核が蔓延し、除隊後の療養施設の確保が急務となりました。1935(昭和10)年、元軍人を対象とした日本初の療養所として茨城県に「村松晴嵐荘」が設立され、1937(昭和12)年には国立結核療養所として国に移管されました。
翌38年、健兵対策と結核傷痍軍人の受入先を求める軍の強い意向も受けるかたちで厚生省が設立されました。そして厚生省の外局として傷兵保護院(のちの軍事保護院)が設置されると、全国に傷痍軍人のための療養所が開設されました。「結核、厚生省を作らしむ」と言われるほどで、終戦までに設けられた約50か所のうち、36か所を結核療養所が占めています。
傷痍軍人療養所では、軍人としての名誉を保持し、人格を形成し、自立と協調を重視して再起奉公を目指す「療養五訓」が唱えられ、精神的にも秩序だった療養生活を送ることが目指されていました。結核療養の環境を整備した傷痍軍人療養所ですが、戦争が長期化するにしたがって、食糧不足にも見舞われ、職員と患者が一丸となって畑を作るなどして食糧を生産するようになっていきました。
傷痍軍人療養所は、戦後に国立療養所に転換され、引き続き結核治療の拠点としての役割を担いました。その多くは現在も国立病院機構などの大規模病院として存続し、地域医療を支えています。
傷痍軍人広島療養所 現在の広島県東広島市に開設されました。
傷痍軍人青森療養所
戦傷病者画。現在の青森県東津軽郡に開設されました。
国立北海道第一療養所
現在の北海道亀田郡に開設されました。
社会復帰と差別
結核は戦後に治療薬が普及するまで、不治の病というイメージはなかなか払拭されず、結核患者への偏見は根強く残っていました。「肺病やみ」と忌み嫌われたことで、結婚や就職にも致命的な影響を及ぼすため、患者と家族は周囲からの差別を恐れて結核であることを公言しない人も多かったと言われています。戦時下では結核に感染したために兵役に就くことの出来ない男子は、国の役に立たない厄介者、非国民であるとさえ言われてきました。
兵役の中で結核となった戦傷病者には、傷痍軍人療養所へ入所して療養に専念する道が開かれていましたが、療養に専念できるような場合でも、死や社会復帰への不安や心配は絶えず、精神的な苦痛は計り知れないものだったといいます。
傷痍軍人療養所では、症状が軽くなった患者に対し、社会復帰を目的とした農作業や園芸、養豚などの作業療法をおこなっていました。これらは一時期、食糧難を凌ぐための食糧確保を目的としていましたが、状況が安定すると職業訓練としての側面を再び強めていきました。作業療法を通じて、患者は自身の作業能力を確認し、社会復帰への自信や意欲を深めた者も多かったとされています。
一方で、戦後は自宅療養を続ける戦傷病者も多く存在しました。家庭内感染を防ぐために子どもとの接触を断つケースもあり、子どもは父親から避けらてれていると感じるなど、親子間のコミュニケーションが困難になるなどの問題も生じました。 また、戦後に登場した治療薬は当初は非常に高価なものでした。何とか治りたいと思う一心で、借金や家財・田畑の売却によって購入費用を工面した患者も少なくありませんでした。
このほか、治療薬を用いても難治性結核で完治が難しい場合や、再発、肺切除の手術を受けたために肺活量が少なく日常生活で不便を感じ、苦労をした人も多かったといいます。医師から自分の運動能力を正しく理解し、無理な力仕事など心臓に負担をかけるような作業は避け、見合った生活を送ると指導され、その通り実行しても、世間からは働かない者、怠け者と蔑まれるケースも多かったといいます。
戦争が終わり、治療薬が手に入るようになってからも、結核患者の闘いは続いていたのでした。