【お知らせ】しょうけい館は2・3階です。他の階はオフィスとなりますので立ち入りはご遠慮ください。

Episode1

 このスケッチを描いた戦傷病者は、師範学校卒業の間近に喀血し、結核への感染が判明しました。教員採用を目前にしての発病を親に申し訳なく感じつつ、3年間の自宅療養生活を送ります。主婦之友社が発行した「結核は必ず治る」という本を読み、安静にすること、きれいな空気を吸うことなどが書かれていたため、開放療法とう、家の中に外気を流し込むため窓を閉めず、寒い日でも雨の日も家の窓を開放する療養を続けました。
 自宅療養中に徴兵検査を迎える年となり、乙種合格の判定を受けました。ただ、その時は見た目だけで判断され、レントゲン検査は行われなかったそうです。
 そして1941(昭和16)年に召集されますが、この時は父親が軍医に結核を患っていることを伝え、即日帰郷となりました。戦争当時、召集された若者が戦地へ赴かず帰宅するということは、男子としてとても恥ずかしい不名誉なこととされていました。そんな時世でも松尾さんの父親は「心配しないで帰ってこい」と言ってくれたそうです。
 その後、病状は回復し、教員として勤めるようになりました。学校につとめて2年目に再度召集され、今度こそ戦地へ行って国のために死ぬだという決心を固めました。この背景には、内地で勤め続けても、食料不足、戦時下で生徒の訓練も増え、身体がもたないと思い、死に場所を求めたのが軍隊だったからと回想しています。
 2度目の応召時も、父親は「身体の悪い(結核の)ことを軍医に言いなさい。帰ってきてもいい」と言ってくれたそうです。しかし、戦争に行って死ぬ覚悟を決めていたため、応召時に病歴を隠し、何も悪いところはありませんと答えて軍務に就くことになりました。
 そして満洲へ派遣されることになり、輸送中も懸命に働きましたが、そこで体調が悪化し再発、内地へ帰され、傷痍軍人青森療養所へ入所しました。患者仲間が毎日のように亡くなり、遺体を霊安室へ運ぶ仕事などを任された時は、自分もこのような姿になってしまうのかと、悲しく寂しい気持ちに襲われたといいます。終戦後の1946(昭和21)年に退院するまで療養生活を続けました。
 退職後は教員として復職、非行少年のための福祉施設、教護院(現在の児童自立支援施設)、児童福祉などの仕事にも携わりました。

《病室スケッチ》

Episode2

 このレントゲン写真は1943(昭和18)年9月に海軍へ入団した戦傷病者のものです。入団後間もなくして第10方面艦隊へ配属され、行先も知らされないまま巡洋艦「高雄」に乗り込むことになりました。艦隊は、レイテ沖へと向かいますが、連合軍を迎え撃つ予定日とされていた前日に「高雄」は魚雷攻撃にあい大破、多くの乗組員が戦死する中、辛うじて負傷をせずに済みました。
 海戦後、「高雄」はシンガポールへ退避、現地の通信隊へ転属となりました。連日、敵戦車へ飛び込む訓練をおこない、艦船勤務や海戦での疲労も重なって湿性胸膜炎を患ってしまいました。
 その後、シンガポールの病院へ入院となりしましたが、戦地の病院は食糧事情も悪く、また病気の患者は戦闘による怪我の患者よりも弱者と見られる雰囲気があったために、心理的にも辛い入院生活を送ることになりました。
 復員後は営林局へ就職することができました。しかし、戦後の食糧事情が悪いなか十分な栄養が取れず病気が再発し、岐阜療養所へ入院することになってしまいました。当時最新の薬であったストレプトマイシンは保険の適用がなく、全て自己負担でしたが家族の協力を得て5本打つことができました。金銭的にも大きな負担になりましたが、薬の効果はすぐにあらわれ、熱が下がったそうです。けれども、経過がおもわしくなく、左右の肺に空洞が出来てしまい、胸郭形成術を受けることになりました。手術は局所麻酔で行われ、左の肋骨を7本、右の肋骨を5本切除しました。700人ほどいた患者が少なくとも1日に1人亡くなっていたので、手術ができたことは幸いだったといいます。
 その後、静養を続けて体力の回復を待ち、散歩、次は作業療法、と体力作りに励み、退院するまで約11年の入院生活を送りました。
 退院後はすぐに社会復帰をすることができましたが、片肺分の肺活量なので、健常者のようには働けなかったそうです。けれども、人に負けないように仕事に取組み、また福祉との関わりを自然に持つようなり、社会福祉に貢献した人生を送りました。
 「苦しいことのみ大かりきでね、人生よかったとは正直申し上げられません」と振り返りますが、妻は子どもたちに、「お父さんは、戦争で大変な経験をして、その上結核を患って苦労したけれど、立派で尊敬すべき人だ」と語ったそうです。

《肺のレントゲンの写真》

Episode3

 戦傷を負った身で結核を患ってしまった戦傷病者もいました。この塩原温泉療養所に入所することになった戦傷病者は、1937(昭和12)年に二度目の応召で中国へ出征し、1939(昭和14)年の戦闘で負傷により右足を切断することになってしまいました。
 治療とリハビリを経て除隊後に復職することができたものの、従軍中に発症した肺結核が悪化し、傷痍軍人塩原療養所に入院しました。そこで下された診断は胸椎カリエスで、かつて戦地で軍馬に胸を蹴られた箇所が結核菌に侵されたものでした。当時、カリエスは致死率が極めて高く、生存しても背骨に変形が残るとされた病です。すでに片脚を失っていた身ですが、この宣告は耐え難いものでした。
 「口惜しいとか悲しいとかじゃなくて、命がないんだと。病気で・・・戦地でつらいおもいをしたのに、病気で死ぬなんて」と、絶望感に苛まれ、服毒自殺をしようと考えて夜中に療養所の薬局に忍び込みましたが、施錠された薬剤庫は開かず、当直の人に発見され、未遂に終わりました。
 療養所で背骨の変形を防ぐため、上半身をギプスで固定した寝たきりの生活は8年間送りましたが、カリエスの痛みは「竹槍を尻から頭まで突き刺されたよう」と例えられるほど凄絶なものでした。固定中は入浴もままならず、ギプス内にシラミが湧くこともありました。その後、ギプスベッドでの静養を3年間継続し、臨時東京第三陸軍病院への転院と職業訓練を経て、終戦後に退院となりました。
 痛みの続く入院生活に耐え、ようやく退院できたものの、戦後の食糧難により家族で苦労し、また結核性睾丸炎で摘出手術を受けることになってしまったこともありました。
 晩年、人生を振り返った時に「戦争中は(自分は)兵器と同じで戦うために作られたのと同じ。90歳を過ぎた時でさえ、自分にとってはまだ戦後。国や国民は戦争は終わったというけれど、年に数回、断端の疼痛がおこる、こうした時、まだ戦争だ、戦後は続いていると感じる」、さらに、「勝っても負けても犠牲は出る、戦争は勝っても負けても人は幸せにならない」と語っています。

《傷痍軍人塩原温泉療養所》

Episode4

 戦時中は満洲で暮らし、戦後は抑留、引揚げの経験がある戦傷病者夫妻もいました。
 夫妻は1944(昭和19)年に結婚、夫はそれまで関東軍の軍属として働いており、45年2月に長男が誕生しました。しかし子どもに恵まれた直後に軍人として召集されました。
 終戦前、満洲から避難した妻と長男は朝鮮で越冬を余儀なくされました。過酷な飢えと寒さから病人が続出し、長男はこの地で亡くなりました。 一方、夫はシベリアへ強制抑留され、道路築造や伐採作業などの重労働に従事します。家族との再会を支えに耐え忍んでいましたが、増え続けるノルマと乏しい食糧事情により、約3年にわたる抑留生活の中で結核を発症してしまいました。
 ようやく帰国を果たした夫は、舞鶴への上陸直後、発熱のため松山の病院へ入院することになります。先に帰国していた妻と病院で再会しますが、そこに長男の姿はありませんでした。事情を尋ねると、そこで初めて長男が異国の地で亡くなったことを知らされました。
 夫は退院後、生活のために仕事を求めましたが、「ソ連帰り」という偏見から雇用先はなかなか見つかりませんでした。さらに結核を患っていることが追い打ちとなり、世間から避けられる日々が続きます。戦後に生まれた子どもへの感染を防ぐため、家の隅で人目を避けるようにして暮らさざるを得ませんでした。
 1954(昭和29)年、夫は左肺の切除手術を受けることになりました。当時の手術は死亡率も高いとうわさされ、命がけのものでしたが、経過は良好でした。しかし、長引く病の苦しみから、妻に辛く当たることが増えていきました。思い悩む妻に対し、妻の父は「結婚する前は申し分のない子じゃったけど、戦争でこんなんになったかのだから、絶対にあれこれいうな、助けてやらにゃいかん」と諭しました。この言葉を機に、「お互いに苦労を重ねてきたのだから」と思いを新たにし、夫を支え続けました。
 その後、夫は洋裁店を開業。妻も夫の体調を案じ、いつでも夫の代わりに働けるように夜間の洋裁学校で技術を磨きました。 戦中・戦後の苦難を乗り越えてきた夫妻は、今日まで歩んでこられたのは社会や周囲の恩恵によるものだと、深い感謝の念を口にしています。

《妻が引揚げの時着用していた上着と頭巾》
Related Contents

展示