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地域社会の中で生きる

 戦後は、自宅で療養をおこなう戦傷病者も多くいました。結核を患った戦傷病者の妻たちは、夫の看病をしながら一家の働き手となって家族を養い、地域社会で暮らしてきました。
 ここでは、戦傷病者である夫が患った結核の病状と自らの労苦体験、夫への想いなどを、妻の記した体験記や証言から紹介します。

Episode5

結婚
1941(昭和16)年、夫は戦地に赴いている職業軍人で、二人は対面することなく結婚しました。初めて顔を合わせたのは、1943(昭和18)年5月、夫がビルマ(現ミャンマー)から東京へ転属となった時でした。

ビルマ戦線での爆撃により難聴を患っており、同時に肺結核にも侵されていました。

熊谷で暮らす妻は、子どもを育てながら家を守っていましたが、1945(昭和20)年8月14日の熊谷空襲で、子どもを背負って逃げ延びたものの、自宅は全焼、翌日の終戦を告げる放送は、放心状態で聞いたといいます。
戦後
帰る家がなくなった夫妻は、夫の郷里である徳之島へ移住しました。しかし、戦後の食糧難から十分な栄養を摂取できず、夫は喀血を繰り返すようになりました。
親族からの借金で生活を凌ぐ中、妻は末子が7か月の時に働きに出ることを決心しました。「乳呑み子を抱えての就職は、それはそれは思いだしたくもない大変なこと」だったと振り返っています。夫は入退院を繰り返し、闘病による精神的疲労から、呼吸困難で眠れない夜は睡眠剤や酒に頼ることもありました。物資が欠乏する時代に、病床の夫と家族を支える日々は困窮を極めました。この間の経験は思い出したくもない出来事でしたが、夫が他界する間際に残した「黄泉の国で道を清めて待っている」という言葉を胸に、余生を過ごしました。

Episode6

結婚
1954(昭和29)年、妻の叔父の紹介で結婚しました。

1942(昭和17年)に中国のハルピンで肺結核を患い陸軍病院に入院。除隊(退院)後も帰郷先で療養生活を送り、家族への感染を防ぐため母屋を離れ、庭の養蚕小屋で生活し、家族と食器を分けるなど、厳格に対策をとった生活を送っていました。
戦後、一度は就職したものの大喀血があり再発したことから、神奈川療養所へ入所。そこで受けた胸郭形成術は当時成功率が低く、枕元に遺言状を置いて手術に臨んだといいます。手術は無事に成功し、医師から結婚生活を送れる身体になったと言われました。

結婚は、妻の叔父が、「今の時代に結核を恐れるのは文明人ではない」と理解を示したことが、後押しとなりました。術後の再発は免れたものの、胸郭形成術に伴うその後の身体動作の制約は生涯続きました。特に前屈姿勢が困難で、靴下の着脱さえ自力ではままならず、出張先では着替えずに就寝せざるを得ないこともあったといいます。妻は夫の日常の細かな動作を常に世話し、長年にわたってその生活を支え続けました。

Episode7

結婚
1952(昭和27)年

戦後のシベリア抑留時の強制労働が原因で、結婚後に肺結核を発症してしまい、入退院を繰り返す闘病生活を送ることになってしまいました。左肺を全摘出する手術を受けた後、療養を続けて社会復帰できるようになったのは40歳の時でした。

家族を養うために、自分が働きに出る決断をしました。今でこそ、結婚をした女性が勤めに出るということはごく一般的なことですが、当時は大変珍しいケースで、会社に「夫を自分の扶養家族にしたい」と申し入れた時、嫌味を言われ辛い思いをしたそうです。
また、夫が「シベリア帰り」、「片肺しかない身障者」と他者から心ない言葉をかけられる時もあり、妻は「好きでこんな身体になったわけではないのに」と憤りにも似た気持ちが湧いてきたそうです。
その後
夫は二人の子どもを育てるためにも、弱気にならずに頑張って社会復帰を果たし、定年退職を迎えるまで精いっぱい働いたそうです。しかし、定年後1年で肺炎となり入院。片肺しか機能していない夫にとっての晩年は、非常に苦しいものだったといいます。夫が73歳で亡くなった時に、妻は悲しいと同時に呼吸困難から解放された安堵の気持ちが混ざっていたとも述べています。

Episode8

結婚
戦時中

1943(昭和18)年に臨時召集を受け中国へ出征。出征後はしばらく音信が途絶えていましたが、中国で肺結核にかかり内地の病院に入院していると知らせを受け、妻は長男を連れて病院に面会へ行きました。酷寒の地で疲労が重なり発病したと夫が話してくれた時、病気は治るのだろうか、治っても元の仕事に戻れないのではないのかと思ったそうです。

夫は1944(昭和19)年に退院(除隊)することになりましたが、結核は完治しておらず、自宅での闘病生活が続きました。生活苦となったために妻が一家を支えることになりました。子どもも3人に増え、毎朝5時から夜遅くまで働き、家族を養ってきました。
その後
自宅で闘病を続けた夫は、病状が快方に向かうことはなく、1955(昭和30)年に亡くなりました。病床で「せめて長男が卒業するまで生きていたかった」と、涙を流して口惜しがっていたそうです。
子どもたちの将来を考え、人に指をさされない大人に育てないといけないと、一生懸命でしたが、「夫がいてくれたら、戦争が無かったらこんな思いをすることもなかったのに」と思うこともあったと綴っています。
夫の無念さ、悔しさを想い回想する妻ですが、その後子どもたちは成人し、それぞれ家庭を築いて暮らしていることに感謝し、夫の冥福を祈る晩年を過ごしました。

Episode9

結婚
戦後

1941(昭和16)年に召集され中国へ出征。戦闘で負傷したものの、原隊復帰を果たし、軍務を継続することになりました。その後、1945(昭和20)年に荷下ろし作業中の事故で腰部を負傷、終戦後の1946(昭和21)年に痛みを抱えたまま復員しました。
1946(昭和21)年に腰部打撲傷と腰椎カリエスの治療で入院、翌47年に結核性左腎臓摘出手術、50年には睾丸結核の摘出手術、膀胱も結核菌に侵されており治療を継続するなど、痛みに耐える日々を送っていました。闘病を続けながらも生活のために洋服屋を営んでいましたが、血尿が出たり、痛みが続いたりと、排泄面での苦労は精神的な苦しみとなりました。1961(昭和36)年には膀胱の状態が悪化し、人工膀胱に代えなければならないほどになってしまいました。

結婚生活は夫の闘病生活を支えることからスタートしました。どんなに苦しい状態でも夫は決して弱音を吐かず、妻や子どもたちに「お前達を幸せにするのがおれのつとめだ」と言ったそうです。妻は、「少しでも夫の心の杖になりたい」と願い、懸命に夫を支え続けました。夫は亡くなる前に「おれは良い家族に恵まれて幸せだった。ありがとう」という言葉を妻に残してくれたそうです。

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