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結核と文学

 結核を題材とした文学作品は多く、徳富蘆花『不如帰ほととぎす』、山本茂実『あヽ野麦峠』、細井和喜蔵『女工哀史』などを通じて、当時の人々と結核の実像に迫ることができます。
 作家自身が結核を患っていたことも珍しくなく、軍医総監を務めた森林太郎(森鴎外)や、日清戦争に記者として従軍した正岡子規が知られています。子規は自伝的随筆『仰臥漫録』や『病牀六尺』で、従軍中に患ったとされる結核カリエスで、精神的にも苦痛を極めた様子を記しています。

いよいよ煩悶する。頭がムシヤムシヤとなる。もはやたまらんので、こらへにこらへた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうかうなると駄目である。絶叫。号泣。ますます絶叫する、ますます号泣する。その苦その痛何とも形容することは出来ない。
・・・・誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。

『病牀六尺』

 戦時中から、結核患者の間で短歌や俳句なども多く詠まれています。35歳で亡くなった元海軍軍人の永田環が詠んだ歌集『療養と短歌』、元陸軍軍人の鰺坂貞武が詠んだ歌集『とろ火』など、傷痍軍人の作品も残されています。
 特に俳句は「療養俳句」という一つのジャンルが形成されるほどで、石田波郷の句集『惜命』は、療養俳句の金字塔として高く評価されています。波郷が入所していた東京療養所では、彼の影響を受けた多くの患者が句を詠むようになったと言われています。俳句という17音の短い作品からは、患者である作者の心情や、療養生活の実態を深く知ることができます。
 結核を扱った全ての作品を紹介することは困難な程多くの作品が生み出され、刊行当時も多くの人々に読まれましたが、現代の私たちにも結核という病の記録を深く伝えてくれます。

永田環『療養と短歌』
鰺坂貞武『とろ火』

石田波郷いしだはきょう

 俳人として有名な石田波郷(本名哲大てつお, 1913-1969)は、結核を患った戦傷病者でもありました。
 1943(昭和18)年に長男が生まれて間もなく召集され陸軍へ入営、中国へ出征しました。1944(昭和19)年に湿性胸膜炎と診断され、済南陸軍病院、天津陸軍病院、大蔵陸軍病院などへの入院を経て、除隊となりました。
 『(病雁びょうがん)』(1946年)には、出征から、発病し1945(昭和20)年3月の内地還送までに詠んだ句が収められており、「鳩とゐて朝焼雀小さしや」などは、波郷が軍鳩取扱兵として、伝書鳩の管理等を行う任にあたっていた様子がうかがえます。
 1947(昭和22)年、肺結核が再発し、腸結核も併発していて病状は重く、国立東京療養所へ入院することになりました。1948(昭和23)年には2度の手術を受け肋骨を7本切除し、翌年に合成樹脂球充填手術を受けました※。
 『胸形変きぎょうへんけい』(1949年)、『惜命しゃくみょう』(1950年)には、結核の再発から、手術、50年の退院までに詠んだ句が収められており、「朝森はえご匂ふかも療養所」「黴の中肋痛む音をしのびあぐ」「たばしるやもず叫喚きょうかん胸形変きょうぎょうへんなどは、療養所の様子や手術の経験などを知ることができます。波郷の師である水原秋櫻子みずはらしゅうおうしは、療養俳句について『胸変形』よりも『惜命』の完成度が高いと評価しています。
 波郷の代表句とされる今生こんじょう病むやむしょうなりき烏頭とりかぶとは波郷自身の生涯と結核の関係について示しています。このほかに、ビルマへ出征し還らぬ弟に詠んだ「心づけば汝を待居たる春隣」、東京療養所の近傍にあるハンセン病療養所を詠んだ「夏没日籟の癩をはだらに透く」などもあります。また俳句のほかに随筆も執筆しており、東京療養所へ入院した際に書かれた『清瀬村』(1952年)は34篇から成る作品です。

合成樹脂球充填とは、結核菌が肺に広がってできた空洞を埋めるために、小石大の球をいくつか埋め込む手術です。戦後の一時期に有効とされましたが、合併症の発生や球が体内で割れるなどの事案も相次ぎ、また抗生物質の登場によって他の外科処置が容易になると、ほとんど行われなくなっていきました。加えて、球を体内から除去する抜球整形術を必要とし、患者は手術を繰り返さなければならないこともありました。波郷も昭和38年に「球抜き」をおこないました。

石田波郷『病雁』
石田波郷『惜命』
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